L.A.コンフィデンシャル
監督:カーティス・ハンソン
出演:ケヴィン・スペイシー/ラッセル・クロウ/ガイ・ピアース/ジェームズ・クロムウェル/キム・ベイシンガー/ダニー・デヴィート/デヴィッド・ストラザーン/ロン・リフキン/マット・マッコイ/ポール・ギルフォイル/パオロ・セガンティ/グラハム・ベッケル/アンバー・スミス/ダレル・サンディーン/サイモン・ベイカー=デニー/ジョン・マホン/グウェンダ・ディーコン/マリソル・パディラ・サンチェス
30点満点中18点=監3/話4/出4/芸4/技3
【ある事件の裏へと迫るLAの刑事たち】
1950年代のLA。麻薬王ミッキー・コーエンの逮捕を機に、マフィアの内紛が激化、スミス警部を中心とする市警ではいっそうの取締りを強化していた。そんな中、元刑事がコーヒーショップで強盗に遭遇、殺害される。出世を目指すエクスリー、解決のためには手段を選ばないバド、ゴシップ誌と組んで手柄を立てるジャック、3人の刑事はそれぞれのルートからこの事件の真相に迫るのだが、そこには市警の“汚点”が潜んでいた。
(1997年 アメリカ)
【やや古さはあるものの良作】
十数年前に初めて観たときより、さすがに衝撃は薄かった。少なくともハンソン監督の近作である『ラッキー・ユー』や『イン・ハー・シューズ』、あるいは『8 Mile』などと比べると、洗練度は落ちる。
バドがリンと出会う酒屋、誰が主導権を握っているのかを意識させる上下視点の多用、エクスリーとバドがロウ地方検事のオフィスへ乗り込んだシーンのダイナミックさなど、それなりに面白い場面はある。50年代のLAを再現した美術や衣装、音楽なども水準以上の仕事だろう。
が、全体として大人しく、サイズに乏しい絵柄。緩急もそれほど目立つものではない。人を殴る音やドアの開け閉めなどサウンドメイクもちょっとやりすぎの感。いまとなっては野暮ったさが勝っている。
ただ、お話としての魅力は上々だ。意外な黒幕など予想もつかない展開、エクスリーの眼鏡が隠喩する「見えない真実」、序盤で示される「放っておくと害になる悪を背中から撃てるか」という問に対する終盤での回答、そして(映画史においてダース・ベイダーやカイザー・ソゼ級の存在感を放つともいえる)悪党ロロ・トマシ……。
頭の中で整理しながら観ないと置いてけぼりを食う恐れもあるけれど、それはすなわち下手な説明を省き、緊迫感やミステリアスな雰囲気をキープしながらストーリーが進んでいく証拠。
演出も、そのお話の面白さを邪魔せず、きっちり誠実に描いていく、というイメージといえそうだ。
キャストも良質。理想と現実の狭間で自らの進む道を見つけ、青二才から警察官へと成長するエクスリー役ガイ・ピアース、不器用にしか生きられないが根っこには熱いものを持つバドのラッセル・クロウ、軽妙さを漂わせながらも才覚と生真面目さも抱え持つジャックのケヴィン・スペイシー。それぞれが適役であり、お芝居も手堅い。
ジェームズ・クロムウェル、ダニー・デヴィート、デヴィッド・ストラザーン、ロン・リフキンなども「もうその役のために俳優やってるでしょ」というくらいのハマリ具合。
もちろんリンを演じたキム・ベイシンガーも、あの黒いフードからブロンドと神秘的な表情が出てきた途端、この映画に不可欠な存在としての輝きを放つ。
だから、多少の古めかしさはあるものの繰り返し観るに値する作品。それに一級の映画に必要な「考えさせる」という要素も確かに持つ。
すなわち、正義とは何か?
本作を観る限り、決して「正義など、どこにもない」とはいえまい。ただし価値観やスタイルは人それぞれ。目には目を、だったり、正義と必要悪とか同義語だったり、大切な者を守るための力が正義だったりする。
ただしそうした価値観や生きるスタイルは、すべての行動倫理の基準というわけでもない。自分が成そうとするべきことに必要な“道具”のひとつに過ぎないのではないだろうか。そんなことを考えさせる映画である。
●主なスタッフ
脚本は監督自身と『ミスティック・リバー』や『ボーン・スプレマシー』のブライアン・ヘルゲランド。撮影は『パブリック・エネミーズ』や『インサイダー』のダンテ・スピノッティ。音楽は『ハムナプトラ』などのジェリー・ゴールドスミス。
美術チームは『グッド・シェパード』や『ハプニング』などのジェニーン・オッペウォール、『パンチドランク・ラブ』や『ダレン・シャン』などのウィリアム・アーノルドら。衣装は『ライラの冒険』や『エンバー 失われた光の物語』のルース・マイヤーズ。
| 固定リンク
« アーマード 武装地帯 | トップページ | レギオン »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント