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2012/10/02

最強のふたり

監督:エリック・トレダノ/オリヴィエ・ナカシュ
出演:フランソワ・クリュゼ/オマール・シー/アンヌ・ル・ニ/オドレイ・フルーロ/クロティルド・モレ/アルバ・ガイア・クラゲード・ベルージ/シリル・マンディ/クリスチャン・アメリ/グレゴイエ・オースターマン/トマ・ソリヴェレ/ドロテ・ブリエール

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3

【富豪と無職青年の奇妙な関係】
 事故のため首から下がマヒし、最愛の妻と死別したこともあって失意の車イス生活を送っている富豪のフィリップ。その介護役の面接に訪れたスラム出身の青年ドリスだったが、ハナっから職を得ようとは考えておらず「不採用にしてくれれば失業手当が出る」と要求する。そんなドリスをなぜか気に入り、試用期間として雇い入れるフィリップ。心配する周囲をよそに、自由気ままで粗野なドリスの態度はフィリップらの生活を変えていくのだった。
(2011年 フランス)

★ネタバレを含みます★

【内容以上のもの】
 あえていえば「なんてことのない話」である。
 上流階級の邸宅に粗野だけれど誠実な青年がやってきたことでもたらされる変化=「異端の混合による文化のシェイク」は使い古されたテーマだし、全体的な展開は予告編などから想像できる範囲内。
 いきなりカーチェイスから始まるという意表を突いた構成や、ドキっとしてしまうほど差別的な表現などもあるけれど、そこに漂う“悲劇性”の予兆は裏切られることになる。
 ごくごく単純に「健常者と障がい者との関係を考えさせる」とか「立場が異なる者同士に芽生えた友情」といった言葉で語ってしまってかまわないストーリーかも知れない。

 ただ、その中に込められたいくつもの“粒”と、そこから導き出せるこの世界の“根幹”には気づかなければなるまい。

 音楽の趣味嗜好や会話の内容、どんな絵画にいくら払うかは、個々の価値観によって左右されることが示される。性的快感を得る方法は千差万別、世の中には同性愛者だっている。
 尊大に見えるフィリップはコンプレックスに苛まれ、野卑に思えるドリスだって人としての哀しみや痛みを知っている。
 要するに、誰もが他から見れば異端であり、と同時に、誰もが他者と同じ面を持っているわけである。
 文化のシェイク、障がい者への接しかた、友情などといった、本作の「わかりやすいテーマ、鑑賞後に語り合いやすい部分」の後ろには、「それぞれが個であるが、個と個をつなぐものがある」という、人間社会における普遍性が潜んでいるように感じる。

 が、そうした内容面よりもむしろ、感心・感動させられたのは、作りの丁寧さというか、描写の妙、すなわち「映画としての仕上がりの確かさ」だ。

 冒頭、静謐で悲しげなエイナウディの『Fly』(実質的な本作のテーマ曲)からEW&F、そしてショパンのノクターンと、コロコロ変化するサウンドトラックで観る者をかき回し、今後起こるであろう、まさしく「異端の混合による文化のシェイク」を匂わせる。
 空撮を大胆に使い、クルマの疾走シーンはアクション映画と見まごうばかりの迫力。近接して追っかけたりちょっと遠くに置いたりなど対象との距離感が絶妙で、上手く人物たちの心情をすくい取る。下手に説明しすぎないテンポも良質だ。
 フランソワ・クリュゼ、オマール・シー、ともに適役で芝居も上々、キャスティングの無理のなさも感じられる。

 もっとも印象的だったのが、ラスト近く、海辺のレストランでのシーン。もうドリスが何を企んでいるのか、そこに誰が来るのか、観客にはバレバレなんである。だから問題となるのは「何が起こるのか、誰が来るのか」ではない。
 ここで監督たちは、歩いてくる影が一瞬だけ先に壁にうつってから彼女の姿が現れる、という見せかたをする(しかも引きの絵で)。この「一瞬だけ先んじる影」に、“映画らしさ”を感じて涙してしまう。
 いやひょっとするとご理解いただけないかも知れないし、上手く説明することもできないんだけれど、こういうセンスを映画の中に見つけたいというのが、私自身の「個」としての価値観なんである。

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