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2012/10/04

セントラル・ステーション

監督:ウォルター・サレス
出演:フェルナンダ・モンテネグロ/マリリア・ペーラ/ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ/ソイア・ライラ/オトン・バストス/オタヴィオ・アウグスト/ステラ・フレイタス/マテウス・ナクターゲール/カイオ・ユンケラ

30点満点中18点=監4/話4/出3/芸4/技3

【代書屋と少年の旅は続く】
 教師の職から引退したドーラは、リオの駅構内で代書屋を開いていた。読み書きできない人に代わって口述筆記で手紙を書いてやるのだが、投函するかどうかは気分次第といういい加減な商売だった。ある日「遠く離れた夫に会いたい」という手紙の主が交通事故で死亡し、その9歳の息子ジョシュエが遺される。「手紙を自分で届ける」というジョシュエを冷たく突き放すドーラだが、成り行きで彼の父親を探す旅へと出ることになるのだった。
(1998年 ブラジル/フランス)

【つながりの中で生きること】
 ウォルター・サレス監督作の感想は『ダーク・ウォーター』が「雨の街とマンション内の暗がりをねっとりと再現する露出・画面作り、上階から響いてくる音など見た目や空気感はなかなかのもの。薄ぅ~いお話を演出でそこそこカバーしている」で、『パリ、ジュテーム』の中の【16区から遠く離れて】は「たまらなく寂しい空気と時間の流れがいい」。
 自分的には割と高く評価していたらしい。

 この映画にも作りの上手さがうかがえる。
 フィルムの鮮度の悪さやショッキングな場面の安っぽい撮りかたなどから古さも感じるのだけれど、雑踏のノイズを丁寧に拾ったりカメラを大きく動かしたりして、手間ひまをかけているのは明らか。「ここからこう撮れば、こういう画面になる」ということも十分に計算されている。
 そうやって“他人の中に埋もれている私”を浮かび上がらせ、“その中で何かをするということは、結局は誰かとの関わりを持つこと”という真実を語っていく。

 しかも、自分がおこなう“何か”が、決して自分の意志に基づくことばかりではないとも示唆される。
 人生の比喩として列車(同じレールの上を行ったり来たり)、バス(決められたコースを走る)、タクシー(自由に走るから道に迷う)といった乗り物が用意されているわけだが、気ままに走った挙句にあれこれぶち壊してしまうこともありうるタクシー人生だけでなく、列車人生だってバス人生だって誰かが設定したルートや速度で目的地まで走っているのだから、自分にはどうしようもない流れでモノゴトが進んでしまう点では同じ。

 つまり、何かをする、誰かと関わるというのは、自分ではどうしようもない流れに身を任せることであり、それこそが人生なのだと本作は伝えるのである。

 そんなテーマを体現するべく、ストーリーは予測不能の展開と勢いで進んでいく。が、ジョシュエが大切にしていたコマのように、どうしようもできない予測不能な人生にあっても、誰かと誰か、何かと何かは、どこかでしっかりとつながっていることも、また事実。

 そのつながりを、どう受け止め、どう生かし、あるいは無視するか。
 リアリストとしての乾燥した価値観とロマンチストとしてのウエットな資質が心に同居するドーラという女性は、ぱっと見ると無責任で無計画に思えるけれど、まぁ僕らだって似たようなものだ。周囲にある「どうしようもないこと」や「つながり」を自分の都合に合わせて解釈・利用し、そうして生きていく。それが人というものなのかも知れない。

 メモとして。ドーラが書く手紙は1通53円くらいのようだ。物価が違うとはいえ、ずいぶんと安い商売である。

●主なスタッフ
 音楽は『シティ・オブ・ゴッド』『タブロイド』などのアントニオ・ピントと、『トーク・トゥ・ハー』に関わったジャック・モレレンバウム。
 サウンドチームには『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のブルーノ・タリエレ。

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