(500)日のサマー
監督:マーク・ウェブ
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット/ズーイー・デシャネル/ジェフリー・エアンド/クロエ・グレース・モレッツ/マシュー・グレイ・ガブラー/クラーク・グレッグ/パトリシア・ベルチャー/レイチェル・ボストン/ミンカ・ケリー/チャールス・ウォーカー/イアン・リード・ケスラー/ダリル・アラン・リード/リチャード・マゴナグル(ナレーション)
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3
【僕と彼女の500日】
建築家への夢を諦め、いまはグリーティングカード製作会社でコピーライターとして働くトム。運命の出会いがなければ幸せになれないと信じている彼は、社長のアシスタントとなったサマーをひと目で好きになってしまう。「真剣な付き合いはしないし、恋人もいらない」という彼女と楽しい時間を重ね、身体も心も距離は近づいていくのだが、やがて“軽い関係”に納得できなくなったトムは、自分とサマーの気持ちを見つめ直すのだった。
(2009年 アメリカ)
【それだけ、を、センスフルに描く】
監督は、My Chemical Romance、Green Day、Daniel Powter、Maroon 5、Hoobastankといった米トップアーティストたちのビデオクリップを手がけた人で、本作が初長編。そういう経歴らしいスタイリッシュさはあるものの、意外と映画らしさにもあふれる仕上がりとなっている。
マイクに背伸びをしたり、青のリボンにこだわったり、思わせぶりな視線を送ったりといったサマーの“何気ない可愛らしさ”を盛り込み、音楽の趣味の一致や違い、腕へのスケッチといった“特別な瞬間”を連ねる。
それらは、日常の中のスペシャルとでも呼ぶべきものたち。誰にでも起こりうるけれど、その人だけのものといえる感情や出来事。初めての夜の後、世界を獲ったかのようなトムのダンスが微笑ましい。
で、時制を解体。単に面白さを狙っただけではなく、リズムを生み出し、好きと嫌いのボーダーがいかに曖昧なままふたりの間に混在しているかを示し、「続かないのが人生」というサマーの言葉を体現するものともなっていて、この映画の重要な仕掛けとして機能している。
そして、「あっちにいるトムを、こっちからの視点で捉える」というカットをたびたびポンと挟み込む。半径10mもののストーリーを、その中だけに閉じ込めず(内省的ではあるものの)客観的に描写することにも努めているわけだ。
周辺の仕事としては、衣装や音楽(Regina SpectorとThe Temple Trapが聴きごたえあった)が「都会に出てきた、どうということのない田舎者の男女の、どうということのない日々」を上手く表現している。
キャストも魅力のひとつ。ジョセフ・ゴードン=レヴィットは、ただのおにーちゃんになり切っているし、ズーイー・デシャネルも「見る者が見れば特別だけれど、やっぱりただのおねーちゃん」にハマる。ジェフリー・エアンドもマシュー・グレイ・ガブラーも、ただの気のいい友だちだ。
レイチェル役のクロエ・グレース・モレッツも、すべてを理解している頼りがいのあるきょうだい、あるいは、ホントは何もわかっていないのかも知れないけれど語ることすべてが真実、という素晴らしいキャラクターをまっとうしている。
さて物語は、運命などない、あるのは偶然と、その瞬間に何かを手繰り寄せようとする意志と行動だけ、という落としどころへ向かう。それが人生におけるひとつの真理であることは確かだろう。
と同時に、ある種の男性(女性に振り回された経験があり、でも女性側は振り回したなんてこれっぽっちも考えていない)には、ちょっとした痛みをともない、甘酸っぱくて、希望も感じるお話として優しくまとまる。
ある意味で“それだけ”というか、とりたてて劇的でもない、惚れたくっついた別れたのストーリー。だからこそ“どう描くか”が大切で、その部分で光を放っている映画だと思う。
●主なスタッフ
撮影は『JUNO/ジュノ』や『マイレージ、マイライフ』のエリック・スティールバーグ。衣装は『きいてほしいの、あたしのこと ウィン・ディキシーのいた夏』のホープ・ハナフィン。
オリジナル・スコアは『ローズ・イン・タイドランド』や『リトル・ミス・サンシャイン』のマイケル・ダナとロブ・シモンセン、音楽監修は『ダーウィン・アワード』のアンドレア・フォン・フォースター。
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