巨神兵東京に現わる
監督:樋口真嗣
企画:庵野秀明
巨神兵:宮崎駿
声の出演:林原めぐみ
30点満点中16点=監3/話3/出3/芸4/技3
【その日、終わりが始まった】
突然、東京の上空に現れた大きな人影。それ=巨神兵は、容赦なく街を焼き尽くしていく。炎に包まれる人類最後の7日間は、こうして始まった。
(2012年 日本)
【手段への愛】
意見や主張を伝えたい、あるいは人を楽しませたいという「目的」を達成するために、小説や歌や落語や漫画や演劇や、そして映画といった「手段」が用いられる。
いい映画を撮るという「目的」のために、脚本や芝居や撮影や美術や衣装や劇伴音楽や視覚効果といった各「手段」が、監督の手で取りまとめられることになる。
優れた視覚効果を実現するという「目的」へ向けて、特殊メイクや光学処理や爆薬や操演やミニチュアといった「手段」が積み重ねられる。
リアルなミニチュアを作るという「目的」を果たすため、効果的な縮尺や素材の生かしかたやパースの工夫といった「手段」の技術が磨かれていく。
要するにだ、手段は手段として、あくまで目的成就のために機能すべきパーツに過ぎないはずなんだけれど、人間のおこない、とりわけ趣味とかエンターテインメントの分野では“手段の目的化”がとめどなく深化し、細部へのこだわりが病的に熟していくんだよね。
っていうか、それがあってこその趣味でありエンターテインメントであるとすらいえるのかも。スピーカーケーブルの撚り、毛バリの素材、ドライバーシャフトのしなり……、そんなミクロへのこだわり。
もちろん、手段とミクロにばかり心が向かいすぎるのも禁物。だいたい当ブログでは「映画の本分を“さまざまな要素が複合的に絡み合うことで作り出される面白さ”にあると考えている」と宣言しているわけで、トータルとしての映画の出来栄えを評価するのが本道。
でも、そこにはやっぱり個々のパーツが欠くべからざるファクターとしてしっかりと(ときにはアピール激しく)存在していることは確かだし、それを認め、それらから受け取るミクロなドキリも大切にしたいもの。
“手段LOVE”の魂、上等じゃん、みたいな。
というわけで、2012年夏、東京都現代美術館の企画展示として開催された『館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』は、そういう“手段LOVE”が凝縮したフィールドになっていたように思う。
やっぱね、フィルム越し、TV画面越しじゃなく実物の質感とかフォルムを観ると余計にね、“手段LOVE”を楽しむ人間のバカっぽさと真面目さとおおらかさと繊細さが愛おしくなります。
マグマ大使の金色ロケットとかMATのバッヂとかゴルゴダの丘フィギュアとかに泣かされちゃうノスタルジーも味わえたし。
で、展示の一環として上映されたのが、本短編。“手段LOVE”の実体化。だって空を見上げる人間も吠える犬もミニチュアだし。爆薬やらビルの素材に凝っている様子をスタッフ自らが楽しんじゃってるメイキングがあったりするし。
あと、林原めぐみによるナレーションベースの内省的な構成とか、フィルムのスプライス部の「カクン」としたところとか、自主制作的・手作り的なニオイもわざと漂わせたりして。
生の世界としての実在感が希薄で、かつ企画展示の中に配されていることも手伝って、全体に「特撮です」的ではあるんだけれど、巨神兵の造形や炎の迫力、そして各所に見られる“ミクロへのこだわり”は楽しい。
そういえばアレだ、この展示会を観に行くまでスッカリ失念していたんだけれど、いま自分がここにいるのって『帰ってきたウルトラマン』のおかげなんだよなぁ。あれが“映像作品における演出”の原体験なんだもの。
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