レクイエム
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
出演:リーアム・ニーソン/ジェームズ・ネスビット/リチャード・ドーマー/ポーリーヌ・ハットン/アンドレア・アーヴァイン/ケイティ・グリードヒル/ジュリエット・クロフォード/アナマリア・マリンカ/バリー・マケヴォイ/エマ・ニール/ステラ・マッカスカー/アンバー・オドハティ/マーク・ライダー/ケヴィン・オニール/ディアムード・ノイス/マシュー・マケルヒニー/コナー・マクニール/ジェラード・ジョーダン/ポーラ・マクフェトリッジ
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【対峙のときが迫る】
プロテスタントとカトリックの対立が続き、暴動やテロ行為が頻発する北アイルランド。自分も何かしなければと焦るプロテスタント系の青年アリスターは、銃を手に入れてカトリックの男ジムを殺害する。その様子を偶然にも間近で目撃したジムの弟ジョーは、母親から罵られ責任を感じながら育つことになる。それから33年、ある理由からアリスターとジョーは、事件の加害者と、被害者の家族として再会を果たすことになるのだが……。
(2009年 イギリス/アイルランド)
【すべての「終わり」に向かって】
アメリカではサンダンスから劇場公開という流れだったが、本国イギリスではTVムービーとして放映、日本を含む諸外国では映画祭からDVDまたはTVという流れでリリースされた作品のようだ。
確かに北アイルランド紛争は(少なくとも日本人には)馴染みの薄い歴史的出来事だし、メジャーな舞台に乗れなかったのは無理もないのかも知れないが、TV向きの、格の低い映画では決してない。
各シーンはリアルタイムに近い流れ。カット数も少なく、声の届く範囲でカメラは回る。時代を反映するように古めの色あいでうつされるのは、何もない街(あるいは何もない国、何もない世界)。そこで人を殺めるのは、宝箱に銃を隠すような幼い狂気。削ぎ落とされたBGMと拾われる息遣いが、彼らや犠牲者たちの様子を生々しく浮き上がらせる。
苦汁をにじませるリーアム・ニーソンとジェームズ・ネスビット、ふたりのオッサンが、かなりいい。特にジョー役のジェームズ・ネスビットの「何者でもないまま長いときを過ごしてきた」っぷりは、間違いなく本作の肝として位置づけられる。この芝居を観るだけでも意味のある作品だ。
にしても、『es』とか『インベージョン』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル監督が、こういうものを撮れるのは驚き。
特にフラッシュバックとして現れるジョーの母の“わめき”には、ほんの短い1カットで「突然、思い出したように悔しさを爆発させる母親」を表現する素晴らしさがある。
映画そのものは地味めで緩やか、ジックリ見せる作風だけれど、だからこそむしろ劇場向きにも思える。
それに、いままでほとんど誰も口にしなかった、けれどもあまりに決定的な「過去との訣別方法」へと踏み込むんでいるのも、本作の凄いところ。
民族運動や宗教問題絡みだけにとどまらず、望まなかった罪を背負い、それによって悶え続ける人や、晴らすことの許されない怒りや哀しみに覆われたまま生き続ける人は、世界中にきっとたくさんいるはず。
そこで神の子は「赦し」を口にするのだろうが、それができるなら、人の世に諍いも罰も苦しみも残らない。
すべての「終わり」を「赦し」に求めるのではなく、ただ「終わり」だという覚悟を決めることだけが「終わり」をもたらすのだ。本作は、そう告げる。それは人としての、ある種の防衛本能なのかも知れない。
原題は『Five Minutes of Heaven』。なるほど、恨みを晴らすことや、相手に思いを遂げさせることが、5分間の至福につながる可能性はある。が、その後に待つのは、これまで以上の地獄。
ならばもう、「終わりだ」と自らにいいきかせるしかないのである。
●主なスタッフ
音楽は『オーシャンズ12』の デヴィッド・ホームズとレオ・エイブラハムズ。それ以外の主要スタッフは、脚本家をはじめ、TVドラマ中心に活躍している面々の模様。
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