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2013/02/27

世界にひとつのプレイブック

監督:デヴィッド・O・ラッセル
出演:ブラッドリー・クーパー/ジェニファー・ローレンス/ロバート・デ・ニーロ/ジャッキー・ウィーヴァー/クリス・タッカー/アヌパム・カー/ジョン・オーティス/シェー・ウィガム/ジュリア・スタイルズ/ポール・ハーマン/ダッシュ・ミホク/マシュー・ラッセル/シェリル・ウィリアムズ/パトリック・マクデイド/ブレア・ビー

30点満点中19点=監4/話3/出5/芸4/技3

【傷を抱えたふたり】
 なんとか刑務所と精神病院からは脱したものの、妻ニッキとの別離からいまだ立ち直れないパット。身体を鍛えてヨリを戻そうとするが、ときおり我を忘れて取り乱したり“躁”になったりする姿を両親は見守ることしかできない。そんなパットが出会ったのはティファニー。彼女もまた夫の死から立ち直れないでいた。接近禁止命令のためニッキには近づけないパットに対して「手紙を届けてあげる」というティファニーが出した交換条件は……。
(2012年 アメリカ)

【その人はその人のままで】
 かなりシンプルというか、ある意味では安っぽい筋立て。心に傷を負った男女が出会ってムニャムニャ……なんてストーリー、これまでどれくらいの数が語られてきたことやら。
 ただ、それを面白く仕立ててオスカー級にまで高めた要素が、確かにここには詰まっている。

 カメラはパットの近く、まるで彼に纏わりつくような感じで回る。ラッセル監督は前作『ザ・ファイター』でも手持ち近接撮影で押していたが、さらにネットリ度を増したようなイメージ。
 この居心地の悪さが効いている。小さな町が舞台、登場人物は顔なじみばかり、ということもあって、「周囲の誰もが自分のやっていること、やってきたことを知っている」という状況・セリフが当たり前のように繰り返されるんだけれど、そのネットリとした閉塞感をそのまんま絵にしたような作りなのだ。

 ダニー・エルフマンのスコアに加え、スティーヴィー・ワンダーだのボブ・ディランだのラウンジっぽいものから南国風までサントラは多彩。中でも印象的なのがThe Dave Brubeck Quartetの「Unsquare Dance」。思わず上映中にリズムを取ってしまった4分の7拍子。ちょうどパットとティファニーの関係が次のステップへ移行する場面で使われているので、ああ人生ってこういう変拍子=何かと何かが足されて始まる違和感だらけの展開、みたいなことで成り立っているんだよな、なんて考えてしまう。

 そして、お芝居。
 やっぱこのジェニファー・ローレンスってイケてるわ。自分の感想を見直してみると『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では「けっこう可愛い」としか述べていないんだけれど、『ウィンターズ・ボーン』になると「体内と脳内に潜む、まだ言葉にできない価値観や、子どもの浅はかさと懸命さ、拒絶と受容などを生々しく表現する」と急上昇。
 で、本作では“説得力のある表情”が素晴らしい。ああ女性ってこういう気持ちのときこういう顔をするんだ、とか、こういう表情のときはこんなことを考えているんだろうなって、自然と感じさせる凄さ(それを短いカットで表現してしまう&撮るほうもしっかり捉える)。
 もちろん熱の入った演技も披露するし、シーンによっては髪質や顔の作りまで違って見せる“女優魂”的なものも感じさせるのだが、それ以上に天性のセンスと計算とに支えられた“表情の出し入れ”の上手さと可愛らしさが光る。チラシでもパンフレットでもパットを誇らしげに見つめる表情がフィーチャーされていて、作る側(宣伝する側)もよぉくわかっていらっしゃるという感じ。

 ロバート・デ・ニーロは「いつもの役とは違うダメ親父っぷりがいい」と紹介されることが多いようだけれど、決してダメ親父じゃない。いや、ダメなところも含めての“親父”を好演。たぶん生涯で2~3回は全財産を失くしてたって不思議じゃないよな、という体臭を放つ。母ちゃん役のジャッキー・ウィーヴァーは、何にもできないんだけれど家族のためならいざというときには行動するのよ的芯の強さと、旦那に対する愛を表現。
 正直ブラッドリー・クーパーはそれほどイイと思わなかったが、役柄はしっかりまっとうしていてアンサンブルを支えているのは確かだ。

 こうして要素ひとつひとつがピタっとハマって、楽しい作品になっているんである。

 さて、当ブログ=自分の映画の観かた・感想のまとめかたでは「正常と異常の境界」が主要テーマとなっているわけだが、そこに1つの答えをもたらしてくれているのも、本作の面白さの要因。

 正常か異常か、その人と付き合いたいと思えるか避けたいと思わせるか、すべては周囲との関係によって作られる。状況によっても左右される。社会次第と運次第。ひょんなことから望まぬレッテルを張られ、それが人生を狂わせることもあるだろう。レッテルにどんどん馴染んでいく自分に戸惑うことだって考えられる。逆に周囲の助けによって救われることもある。

 ただ、何よりも自分次第。
 ラストでは、自制心というか、自分にとって何が大切で、その大切を貫くためにはどう振る舞わなければならないかをわきまえる冷静さが、異常から脱却するキーとして示される。接近禁止令の対象に極限まで近づき、でもそれ以上、心の距離は縮めないパットの姿。
 またティファニーのセリフとして心に残ったのが、これ。
  I was a slut.
  There will always be a part of me that is dirty and sloppy,
  but I like that,just like all the other parts of myself.
  I can forgive. Can you say the same for yourself,fucker?
  Can you forgive? Are you capable of that?
 過去があっての、いまの自分。私は私自身を許すし、いまの自分が好き。多分に強がりであり、自己崩壊を防ぐための正当化でもあるのだろうが、そうやって自分を前へ押し出そうとする、人の強さ弱さが示される。

 導き出せたのは、奇異な行動そのものや人とは大きく異なる価値観ではなくって“その人がその人でなくなること”が、すなわち異常なんじゃないかってこと。

 父ちゃんはパットにハッパをかけたり守ったりするのと同時に利用しようともする。兄ちゃんはさんざん弟に毒づくのに、抱き合うし助け合う。母ちゃんは一応パットに「クスリを飲まなきゃ」というけれど、それほど深くは考えずむしろパットと周囲との関係に気を揉んでいる様子。パットとティファニーの間にも、嘘や、自分に都合がいいように相手を振り回すわがままがある。
 でも、家族あるいはパートナーという社会の中で確固たる自分、確かな関係を築いているので、まぁそんなことは登場人物にとって大したことじゃないし、観ている側にとってもどうでもよく思えてくる。

 終盤、あることが成功するかどうかが展開上のカギとなってくるのだが、これまたどっちでもいいや、成功しても失敗しても、と思わせる。だってこの人たち、どっちにしても“その人はその人のまま”でワイワイガヤガヤ生きていくに決まってるんだもの。
 そういう雰囲気を出せているのが、本作の良さ。

 原題の『Silver Linings Playbook』は「どんな困難な状況でも必ず希望の光はある」という意味らしいけれど、ここでは少しだけ曲げて解釈してみたい。困難も失敗もいいことも、みんなひっくるめて人生。その中で自分が自分であることをやめなければ、正常とか異常といった尺度なんか知ったこっちゃない。
 その真理こそが、まさに光だと思える映画である。

●主なスタッフ
 撮影は『バベル』の東京パートに参加していたマサノブ・タカヤナギ、編集は『マイ・ブラザー』のジェイ・キャシディや『イーグル・アイ』のクリスピン・ストラザーズ。
 プロダクションデザインは『ブロークバック・マウンテン』のジュディ・ベッカー、衣装は『アーティスト』のマーク・ブリッジス。音楽は『スリーデイズ』などのダニー・エルフマン、音楽スーパーバイザーは『悲しみが乾くまで』のスーザン・ジェイコブス、サウンドエディターは『プリンセスと魔法のキス』のオーディン・ベニテス。スタントは『THE 4TH KIND フォース・カインド』のベン・ブレイ。

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