ゾンビランド
監督:ルーベン・フライシャー
出演:ジェシー・アイゼンバーグ/ウディ・ハレルソン/エマ・ストーン/アビゲイル・ブレスリン/アンバー・ハード/デレク・グラフ/ビル・マーレイ
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3
【ゾンビから逃れ、西にある夢の国を目指す】
人肉を喰らう死人が跋扈する“ゾンビランド”と化した合衆国、人付き合いを避けていたおかげでかろうじて難を逃れた青年。彼はショットガンを手に、生き延びるためのルールを胸に、ひとりで西へ、両親の住むコロンバスを目指していたが、その道中、タラハシーへと向かうタフガイ、詐欺師の姉妹ウィチタ&リトルロックと出会う。油断ならない面々、迫り来るゾンビ、意外な生存者など、汚染されていない土地を目指す旅は続くのだが……。
(2009年 アメリカ)
★ネタバレを含みます★
【ゾンビ映画の新たな金字塔!?】
のっけから、走るゾンビに子どもゾンビ。しかもクルマにしがみつく子どもゾンビを引きずり回す残虐ぶり。異常事態のキッカケが「汚染バーガー」ってのも凄くて、とにかくゾンビ映画のルールを無視し放題だ。
そういえば、主要登場人物およびその近辺の人物が誰もゾンビ化しないってのも、意外と珍しいかも知れない。
いっぽうで、映画の核には“ルール”を置く。生き延びるために守らなければならないルール。「二度撃ち」に「トイレに気をつけろ」、「ヒーローになろうとするな」、はたまた「小さなことを楽しめ」と、その1つ1つは異常事態における行動指針として実に説得力がある。
たぶん、コロンバスの掲げるルールには「他人を信用するな」や「出来る限りひとりで行動」といったものも含まれているはず。
だいたい、既存のゾンビ映画にありがちな「生存者と出会えたら素直に喜ぶ」とか「徒党を組んで集団で自己防衛」というのは、おかしな話。こういう状況下だと、面倒を避けるためコロンバスやタラハシーのように単独行動を取るか、ウィチタ&リトルロックのように肉親以外は信じないという態度で突き進むか、とりあえずは、それがセオリー。
だって、そいつが何者なのかわかったもんじゃない。ゾンビという凶悪な比較対象があるせいで、とりあえず人間というだけで信用しがちだけれど、そいつも恐らくは「自分だけは生き延びる」ことが第一義なのだ。
感情の振り子が、一応の信頼と、裏切りや疑い、2つの地点を行ったり来たりしながら、少しずつおたがいの行動指針や利害をすり合わせていく。それがゾンビランドにおける「旅の仲間」なのだろう。生きているだけで無条件に善人として認められるのは、気のいいハリウッド・セレブくらい。そのビル・マーレイだって、まぁ扱いは散々なもんだ(やや楽屋落ち的なニオイもあるけれど、笑える)。
先の読めない展開+おふざけに満ちているけれど、意外とリアルな体臭を放つ映画じゃないだろうか(依然として電力が供給され続けているってのは不思議だが)。
作りとしてもクール。小さな映画ながら、燃えるホワイトハウスやゴーストタウンといったゾンビランドの創造には力が入っていて、見ごたえあり。スローモーションでスタイリッシュに人間対ゾンビの戦いを描くタイトルバックをはじめ、全体にポップな映像とテンポが楽しい。
終末世界と破壊衝動にロックが馴染むのは当然として、モーツァルトが似合うってことも示してくれて、音楽の使いかたも上々だ。
で、最終的に「仲間がいなきゃゾンビと変わらない」=アンチ引きこもりのメッセージ映画(?)へと収束させるってのも、意外。
ま、だとすればコロンバスはもうちょっとイヤなヤツというか、身勝手で自己中心的に設定すべきだったはずで、そのあたりの弱さは残るけれど、あらためて、「昨今のゾンビ映画では、どんなテーマを設定し、どうアレンジするかが問われているんだなぁ」ということを実感しつつ、「ぷふっ」と何度も吹き出してしまう、楽しい作品である。
●主なスタッフ
脚本は『モンスターズ・インク』に参加していたレット・リースと、TV中心のポール・ワーニック。
撮影は『クローバーフィールド/HAKAISHA』のマイケル・ボンヴィレイン、編集は『ライフポッド』のアラン・ボームガーテン。
プロダクションデザインは『守護神』のメイハー・アーマッド、衣装デザインは『ジャンパー』のマガリー・ギダッシ、音楽は『ラスベガスをぶっつぶせ』のデヴィッド・サーディ。サウンドは『サブウェイ123 激突』のカミ・アスガーとショーン・マコーマック。
SFXは『きみに読む物語』のボブ・シェリー、VFXには『第9地区』のトレバー・アダムスや『ソルト』のマーク・ブレークスピアらが参加していて、スタントは『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』のG・A・アギレア。
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