ぼくのエリ 200歳の少女
監督:トーマス・アルフレッドソン
出演:カーレ・ヘーデブラント/リーナ・レアンデション/ペール・ラグナー/ヘンリック・ダール/カーリン・ベルグクイスト/ペーター・カールベリ/イカ・ノルド/ミカエル・ラーム/カール=ロベルト・リンドグレン/アンデルス・T・ピードゥ/ペール・オロフション/カイタノ・ルイツ/パトリック・リドマルク/ヨハン・ソムネス/ミカエル・エルハードション/ラスムス・ルサンデル
30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4
【オスカーとエリ】
離れて暮らす父と会う週末だけを楽しみに待つオスカーは、友だちがおらず、いじめっ子にやり返す度胸もない12歳の少年だ。ある日、彼のアパートの隣の部屋に1組の父子が引っ越してくる。時を同じくして近辺では死体を吊り下げる猟奇殺人が起こりはじめた。夜、ひとりで公園にいたオスカーに声をかけてきたのは、引っ越してきたあの子。「だいたい12歳」というその子=エリとオスカーの距離は近づくが、エリにはある秘密があった。
(2008年 スウェーデン)
★完璧にネタバレを含みます★
【愛ゆえの愚行】
担当者の頭がどうにかしちゃってたんじゃないかと疑われるほどヒドい邦題と、肝心なところにボカシを入れてしまった日本版は、各所で不評。むべなるかな。
原題が『LAT DEN RATTE KOMMA IN』で「正しきを入らしむ」といった意味であることと、ボカシの下には去勢痕があったという点を鑑賞後に知ってから感想をまとめてみる。
実は、ショッカー色の来い昔ながらのオカルト、それもB級のテイストにあふれた作品だと捉えることも可能だと思う。シュキャーンといったSE的なサウンドとともに殺人がおこなわれたり、ネコのSFX/VFXがチープだったり。
逮捕され入院中の“パパ”に何の治療も施されていないのだって、あのグロテスクな顔を見せたいってだけのことだろうし。
が、それらは本作にあって、むしろ不調和的な要素。というか、ともすれば美しさすら感じてしまう大きな出来事の陰に残虐な行為があることを観る者に忘れさせないための要素。基調をなしているのは、冷たくて儚くて愚かで後戻りすることもできない、そんな絶望的な空気感。
わかりやすい怖さをただ畳み掛けるのではなく、トータルとしてのストーリーと構成術と描写によって「誰が、どんな想いで、何をおこなったか」を切なく魅せる映画だ。
徹底して貫かれるのは、裏側にあるものを読み取らせる、という意識。
たとえば冒頭、オスカーの奇妙なセリフと行動~教室での彼の振る舞いと旧友たちに浴びせられる視線で、もう自然にイジメの存在が浮かび上がってくる。パパとその友人との関係や、それをオスカーがどう思っているかも、画面を見て想像してもらう作り。ヴァンパイアについても、あるいはエリと男の関係についても、細かな設定説明は省略してみせる。
削ぎ落とされたセリフ、無駄を省きながらも1つ1つが印象的なエピソード、あえて表情などを画面に収めなかったり遠めから捉えたりするクセのあるフレーミング、展開と編集の巧みさにより、集中と読解とを強い、惹きつけていくような話法にしびれる。
ふわっと入っておいて、いつの間にかぎゅうぎゅうと締めつけていく、そんな緩急の技も素晴らしい。
死体発見とオスカーの逆襲をカットバックで見せる屋外学習の場面は、2つの異なる音楽が徐々にボリュームを上げながら一体化するかのような盛り上がりを示す。クライマックス、バスルームへ至る場面に漂うのは「そこに何が待ち受けているのか」と息を飲ませる緊迫感だ。
オスカー役カーレ・ヘーデブラント君の(いろん意味での)白さ、エリ役リーナ・レアンデションの(これまたいろんな意味での)黒さ、そのコントラストの妙にも心が騒ぐ。
そして、物語としての魅力。
打ちのめされた、というほどではないが、これまで「永遠の命を持ってしまった者と、そうとは知らずそんな存在に心を奪われた者による悲恋」だとか「犠牲のうえに成り立っている命」という意味での哀しさ・切なさをヴァンパイアもののセオリーと捉えていたのに対し、この映画は新しい形の“ヴァンパイアゆえの哀しみ”を突きつけてくる。
いわば、愚かかつ野蛮でなければ生きていけない、という哀しさ。
エリにとって、人を殺めるのも、大切だと感じる人を惨劇に巻き込んでしまうことを知っていながら自分の世界に取り込むのも、すべては生きるための手段。ある意味でこれは、エリが生き残っていく姿を語るストーリー。
一瞬だけ老女の顔をのぞかせるように、エリの中では自分の存在や行為を「当たり前のもの」として受け入れるための時間がたっぷりとあったことだろう。だが、そうして「人であることを放棄する哀しさ」に、エリは気づいているだろうか。
いっぽうオスカーは、しごく当然のようにエリの生きかたを受け入れる。あるいは「いまよりマシな自分」に対する憧れのようなものも、彼にはあっただろうか。いずれにせよオスカーは、自分がなそうとしていること、自分が果たすべき役割の重大さに気づいていない哀しみを抱える。
作中、教師が『ホビットの冒険』を語って聞かせる場面がある。その主人公ビルボ・バギンズのように「無謀な役割を与えられ、それに対して誇らしげに感じる愚かさ」をオスカー自身も持つようだ。
そして、ふたりを結ぶ残酷な絆。「入っていい」といわれてはじめて部屋に入ることができる、というヴァンパイアの設定は「あなたが招きいれたことなのだから、どうなっても後悔してはいけない」、そんな意味を持つ、エリ側に用意されたエクスキューズなのだ。
恐らく去勢痕は、エリが同種を生み出さないようにするための、昔の誰かによる計らい。だがそうすることと引き換えに、「代々のオスカーによる雑な殺人」が始まったのである。
静寂の中の雪がリフレインされるオープニングとエンディング。それは、これまで繰り返されてきた悲劇、今後も繰り返されるであろう悲劇の暗示にほかならない。そして、思えば男なんて、みんな似たような自分勝手な愛を原動力として突っ走るものなのだ。
ヴァンパイアという設定を借りて明らかとなるのは、“愛ゆえの愚行”という人の本質。そんなことを考えさせる作品である。
●主なスタッフ
原作者のヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストが脚色も担当。監督をはじめスタッフのほとんどがスウェーデンのTV業界で働く人のようだ。
撮影監督は『ザ・ファイター』のホイテ・ヴァン・ホイテマ、音楽は『悲しみが乾くまで』などのヨハン・セーデルクヴィスト、サウンドエディターは『キラー・インサイド・ミー』のペール・サンドストローム。
SFXはハリポタ『死の秘宝PART1』に関わったイェンス・マルテンション、スタントは『ドラゴン・タトゥーの女』のキムモ・ラヤラ。
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