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2013/10/15

R100

監督:松本人志
出演:大森南朋/大地真央/寺島しのぶ/片桐はいり/冨永愛/佐藤江梨子/渡辺直美/松尾スズキ/YOU/西本晴紀/前田吟/松本人志/小木茂光/北見敏之/高橋昌也/リンジー・ヘイワード/渡部篤郎

30点満点中17点=監4/話2/出4/芸3/技4

【Mの生きざま】
 大手家具店で真面目に働く片山貴文。妻節子は3年間昏睡状態で、ひとり息子である嵐の世話は義父の喜一郎が甲斐甲斐しく見てくれている。そんな片山が秘かに開いたのは『ポンデージ』のドア。その会員制SMクラブが提供するのは、日常生活のあるゆる場面にさまざまな“女王様”が姿を現し、客を痛めつけるというサービスだ。契約を交わした片山は日々恍惚を味わうのだが、やがてサービスはエスカレート、家族にも危険が迫ることとなる。
(2013年 日本)

【相互理解と許容へ向けての深い闇】
 お笑い芸人として映画を解体してみせた『大日本人』、SFとコントとを融合させた『しんぼる』、その2本のテイストを逆手に取って感動へつなげた『さや侍』。撮るたびに新しさを打ち出した初期3部作に対し、リスタートとなる本作は果たして……。

 まずは、設定や展開は不条理ながら劇映画としての体裁は整っていて、片山の妖しげな日常がスリリングかつユーモラスに描かれていく。「いつ? どこに女王様が?」という居心地の悪さ、さらには、女王様に喋らせない序盤から一転「声の女王様」という倒錯が楽しい。
 ただ、そこから事態を加速させていくかと思わせて、自らの作品を作品内で批評するというメタ構造へ道を踏み外し、そして不条理だけを倍加させて暴走へと至る。この構造、まるで『大日本人』だ。
 つまりは残念ながら“ふりだしに戻る”というイメージ。

 ただ、読み取りを促すパワーは相変わらず。しかも時間を追うごとに、あるいは展開が進むごとに、考えなければならないことが変化する。それが松本作品の真骨頂。

 描きたかったことの第一は“人の複雑性”か。人間が内面に抱える純で澱んで汚らわしくて愛らしいものを、片山貴文のМ気質の発露として炙り出していく。そこでは、単純に痛めつけられることが快楽なのか、現実逃避の手段なのか、あるいは現実世界で彼が負う悔恨を飼い慣らすために自虐へ走っているのか、SとMの機能は混沌としている。「自分の望んだ通りに辱められないと戸惑う」という身勝手さも顔をのぞかせる。

 第二に、そうした複雑かつ身勝手な人と人とが入り混じることで作り出される社会が、個々にとっていかに受け入れがたいものか、という事実。
 理不尽な契約、見て見ぬフリをする人々、動かぬ公僕、押しつけられる創作者の自我……。この世は“わたくし”をイラつかせる“周囲”でできているのだ。
 各種の女王様も、それらに悦びを覚える者も、女王と彼の関係を見つめる目も、実は、そのまんま僕らの社会。自分の価値観や趣味嗜好や性癖を、知らず知らずのうちに(またはこれ見よがしに)披露したり強要したりしながら、人の迷惑顧みず(あるいは周囲の迷惑顔すらも自身の喜びに変えて)僕らは生きているのである。揺れているような錯覚も、他人には感知し得ない自分だけの世界。

 他人を理解できない、理解しようとしない、理解してもらおうとしない、理解することもされることも必要だと感じない。だいたい、自分自身が理解していない。そんなわがままな世界を作り出すために、人間離れした、確かにS気質だと感じられる女たちと、いかにも胡散臭い男たちが配される。
 また、もともと松本監督は緻密綿密な脚本や演出プランではなく“思いつき”をもとに撮っていく映画作家であり、スタッフが「こんな感じで撮りたいんだな」と監督の意図を察知しながら作り上げていく体制であることはわかっていたが、今回はそれが過去作以上に爆発しているイメージ。
 コントロールされた色調、スピード感と間の悪さとわかりやすさと不可思議さをすべて共存させようといかにも苦労しているっぽい編集、VFXの頑張。トチ狂っていて安い音楽も、迫力のカケラもないカースタントも、すべては不完全かつ混沌とした世界を創造するためのものだろう。

 さて、第三のキーが「人は物事を2つに分けようとする」とのセリフだ。
 本作はR100、すなわち100歳以下の鑑賞を禁ずる映画であるわけだが、それってもう「誰も観るな」に等しい。誰にも理解できないよ、といっているようなもの。数字上は100を境に“あちら”と“こちら”に分けているのだけれど、物事を2つに分けることなど実質的には無理なのだよ、ということを表すタイトルである。
 他人を理解できない、理解しようとしない、理解してもらおうとしない、理解することもされることも必要だと感じない、自分自身ですら理解していない、そしてそもそも理解することなどできない。それが世界。

 SかМか、面白いか面白くないか、理解できるかできないかといった二元論ではなく、それらがゴッタになって1つにまとまり、究極のМから生じるSというスピンアウトのような、“そうとしかいえない”もの、理解するというより受け入れざるを得ないものによって世界はできているのだ。
 だから、巨匠の『R100』にアレコレと感想を述べる者たちの的外れな姿=無理やり何かを理解しようとすることに対する違和感の吐露が描かれる。これ、作品の奇天烈さに戸惑う観客の心を代弁しているかのようで(あるいは自分の作品に自分でツッコむという笑いとも取れる)、実は、解説者に依存して映画を観る姿勢への侮蔑というか、「松っちゃんの映画って、よくわからない」という批判に対する批判に思えるのだが、どうだろう。

 監督本人も、万人(というか他人)にわかってもらおうと思って撮ってはいないはず。「芸人が真っ当な映画作ってどないすんねん」的な気持ちで予定調和を構造面から拒絶・否定する、そんなスタンスで映画と向き合っているのではないか。
 で、この感想もまた“わかった気になって”書いているという罠をはらんでいるわけだが。相互理解を超えた許容へ向けては、なんとも深い闇が広がっているものだ。

●主なスタッフ

撮影/田中一成『ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲』
編集/本田吉孝『さや侍』
美術/愛甲悦子『しんぼる』
衣装/伊賀大介『おおかみこどもの雨と雪』
VFX/西尾健太郎『テルマエ・ロマエ』

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