ヴィンセントは海へ行きたい
監督:ラルフ・ヒュートナー
出演:フロリアン・ダーヴィト・フィッツ/カロリーネ・ヘルフルト/ハイノ・フェルヒ/カタリーナ・ミュラー=エルマウ/ヨハネス・アルマイヤー/カリン・サラー
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸3/技4
【施設を抜け出し、海を目指して走る彼ら】
母を亡くしたヴィンセントは、離れて暮らす父ロベルトによって強引に施設へと入れられる。チックの症状=トゥレット症候群を治療するためだ。そこで拒食症のマリーと出会うヴィンセント。ローザ医師のクルマを盗んだマリーに誘われて、ヴィンセントは強迫性障がいを持つルームメイトのアレクサンダーとともに施設を抜け出す。目指すはイタリアの海、亡き母が笑顔を遺した思い出の地。が、社会に馴染めぬ3人の旅路は波乱続きで……。
(2010年 ドイツ)
【悲劇などない、のかも知れない】
例によってwikipediaより。頻繁なまばたきや顔の細かな動きなどの「運動チック」と、短い叫び声や罵倒などの「音声チック」を繰り返す神経精神疾患がトゥレット症候群。「軽度のものを含めると比較的ありふれたものと考えられている」とあるが、実際、小学校のクラスメイトにも運動チックを示す男子がひとりいた。
彼のチックについて周囲の僕らは(教師がきっちり説明してくれたことも大きかったと思うが)、クセというよりちゃんと“何らかの精神症状”という認識を持ち、そのうえで割と軽く「そういうもの」と捉えていた。彼は勉強も運動もできたしクラスでは中心的な人物でけっこうモテたし、成長するに連れ少しずつ収まっていったように記憶している。
自分の映画の観かたとして“正常(とされるもの)と異常(とされているもの)の境界”はひとつの大きなテーマになっているけれど、あるいは彼の存在が発端なのかも知れない。
ヴィンセントのように「音声チック」があれば、確かに社会生活は困難だろう。もちろん強迫性障がい(極度の潔癖)であるアレクサンダーも同様。マリーにいたっては命の危険すらある。
が、ローザ先生だってタバコをやめられないでいる。ロベルトには強い権力志向がある模様で、しかしどうやら“堕ちていく妻”を支えられるほどには強くなかったようだ。
彼我の差に対する疑問を内包したキャラクター配置であることは間違いないだろう。
そして、誰もが根拠も理由もない(少なくとも薄い)行動を取る。ヴィンセントは母の遺骨を海へと還さないし、マリーはあやふやな依存と拒絶を繰り返し、無理やり同行させられたはずのアレクサンダーはマイペースで行動するようになって、やがて「3人での旅」そのものが目的と化していく。
追いかけるローザとロベルトにしたって、なぜ自分がそうしているのかわかっているとはいいがたいし、正義と違法との区別も曖昧。
そこに正常とか異常とかの差はない。ただ「自分は社会の中で生きていけるかどうか」「どう振る舞いたいのか、実際にどう振る舞うのか」といった問題への回答が、人によって少しずつ異なるだけの話。
一応は“障がいゆえの悲劇性”を漂わせるけれど、非障がい者であっても社会との適合を問われるシーンで妨げとなる価値観や病気を持っていたって不思議ではないわけで、だから「人って、そういうもの」と考えるなら、そもそも悲劇などなくて、「人生って、そういうもの」へと帰結するのかも知れない、なんて思ったりする。
そういう物語を、たとえば「なんで君はここ(施設)にいるの」みたいな取ってつけたセリフや説明を排し、父ロベルトの仕事や家族関係なども、匂わせたり展開の中で自然とわからせたりする“スマートさ”でまとめてあるのがいい。
自然光を生かし、周囲の音を丹念に拾い、ロックとベートーベンを無理なく共存させて、仕上がりとしてもスマート。
とりわけ、細かくカットを割ってリズムを作り出すなど“表現のために必要な手間”を惜しんでいない制作姿勢に感心させられる。十字架の上に座る場面なんて、ヘリ撮影なのかVFXなのかわからないけれど、いずれにせよ手の込んだカットを、「天国に最も近い場所にいる浮かれ」を示す重要なものとしてサラリと混ぜ込む。
また「倒れるマリー」でも「倒れたマリー」でもなく「いま苦しそうに倒れたマリー」を見せるのも、ひとつのセンス。そこから得られる“自分にはどうしようもできないかも知れない出来事に直面したときの無力感”が、人を追い込むと同時に奮い立たせるものでもあるのだとわかる編集だ。
主演フロリアン・ダーヴィト・フィッツによる脚本。彼がやりたかったこと表現したかったことを作者としても役者としても画面にぶつけ、彼をしっかりサポート/増幅してくれるスタッフにも恵まれて、いい映画が実現している。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント