メタルヘッド
監督:スペンサー・サッサー
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット/デヴィン・ブロシュー/レイン・ウィルソン/パイパー・ローリー/ナタリー・ポートマン/ブレンダン・ヒル/ジョン・キャロル・リンチ/モニカ・スタッグス
30点満点中19点=監4/話4/出5/芸3/技3
【哀しみの中に現れたアイツ】
事故で母を亡くしたTJ。あれ以来、父ポールは働きもせずソファで横になっていることが増え、祖母はどこか調子っぱずれ、学校でもダスティンから目の敵にされて暗い毎日だ。そんな折、暴力的で謎めいた流れ者の男ヘッシャーが無理やりTJの家に転がり込んでくる。ヘッシャーの傍若無人ぶりに戸惑い怯えながらも、なぜか彼と行動をともにすることが多くなるTJ。レジ係の“おばさん”ニコールへの淡い想いもふくらんでいき……。
(2010年 アメリカ)
【キャラと芝居と脚本と】
膠着状況への異端混入とその影響、というテーマはありふれたものだが、にしてもヘッシャーというキャラクターはあまりにもあまりだな。
おばあちゃんへのリスペクトで優しさを持つ人物だということはわかるものの、ただ享楽的なのか、どこまで真剣なのか、何かの隠喩なのか、軸足をどこに置いているのか……、本質をタバコの煙に包むかのごとく刹那的な言動をまき散らし駆け抜けていく。
ヤだよね、こんなのがそばにいたら。でも気になるよね。怒りたくもなるし頼りたくもなるし利用したくもなるし遠ざけたくもなる。
そう思わせた時点で、もうヘッシャーを作り上げた書き手と、演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットの勝ち。
このキャラクターのおかげで、周囲にある哀しみがいっそう明らかとなるという構造。どれだけかき混ぜても沈む澱のような人の想い。
哀しみと怒りのカオスの中、幼さゆえに対抗したり封じ込んだりする術を持たないTJ。デヴィン・ブロシュー君が上手い。
なんだかもうどうにでもなれ的な“やつれ”、スーパーでしか服を買ったことがないようなニコールの、ナタリー・ポートマンもさすがの仕上がり。
作りの点では、発せられた音やセリフが別の場面に乗っかるのが特徴的。そうして、目の見えないところにあるものでも自分の生活に影を落とし、すべてを支配しているのだという空気が出来上がる。
いいなぁと感じるのは、背景の感じさせかた、心情の匂わせかた。
上記の「スーパーでしか服を買ったことがないだろ」というのもそうだけれど、序盤では、テーブルの上に放り出してある財布に手をつけず、父を起こしてからランチ代をもらうTJの様子で「本来はちゃんと育てられた子」ということをわからせる。
で、そこからのつながり=勝手にキャッシュカードを抜き取る行為で、どれだけTJが追い詰められているかを描いてみせる。つまりは展開・組み立ての妙もあって、考えられたシナリオなのだ。
ラスト、本当はいつでもおばあちゃんと散歩に出かけられたはずなのに、ほとんど面識のない他人がそれをやっていたなんて、という残された者の悔恨がたまらない。
よく「後悔はするな」なんていうヤツがいるけれど、後悔する感受性があってこその人。何かをできなかった過去の自分を抱えながら生きるのが人。問題は、そこから先。
後悔は後悔として、じゃあいまできることは何かを考えて、そこへ進む。
そんなシンプルで当たり前のメッセージを、暴力的に、刹那的に、眩惑的に放つ佳作である。
●主なスタッフ
編集は『ナイト&デイ』のマイケル・マカスカー、プロダクションデザインは『(500)日のサマー』のローラ・フォックス、サウンドエディターは『エクスペンダブルズ』のデイヴィッド・エスパルザ、SFXは『トランスフォーマー』シリーズのジョン・フレイジャーとタイラー・マットソン、スタントは『ナイト&デイ』のナッシュ・エドガートン。
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