渇き。
監督:中島哲也
出演:役所広司/小松菜奈/清水尋也/妻夫木聡/オダギリジョー/高杉真宙/二階堂ふみ/橋本愛/森川葵/黒沢あすか/青木崇高/國村隼/星野仁/葉山奨之/康芳夫/中谷美紀
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【娘の影を追って】
別れた妻・桐子から娘の加奈子が失踪したことを知らされる元警官の藤島昭和。傍若無人ともいえる行動力でひとり捜査を進める藤島だったが、加奈子の友人や教師らから話を聞くうちに、それまで知らなかった娘の本当の顔を知ることになる。ドラッグ、ヤクザ、藤島が第一発見者となった殺人現場と娘との関係、後輩刑事・浅井の暗躍……。果たして加奈子はどんな出来事の中で、どんな道を生き、そしてなぜ、どこへ消えたのか?
(2013年 日本)
【それは、人の渇き】
この映画、「なぜ?」の部分がかなりボカされている。
まずは加奈子と、その周辺にいる若者たちについて。たとえば加奈子はなぜ魔性として存在しうるのか? 一応は「人が聴きたいと思っている言葉を囁く」と設定されているものの、彼女がそうなった、あるいはそのようなスキルを身につけた要因、加奈子の周囲が彼女に惹かれたり行動をともにしていく過程などは一切無視で突き進む。加奈子を愛した“ボク”がイジメられる理由もない。
大人たちも然り。藤島が娘の行方と奪還にこだわる理由は、まぁ愛といってしまえばそれまでだが、どちらかといえばこの男の想いの源泉は、ただ倒錯という印象しか与えず、「これこれこうだから」と万人が納得できるように説明することなど不可能だろう。
殺し屋愛川の行動規範も説明省略。ただ殺したいから殺すのみ。客のオッサンたちが抱える変態性も「人であれば普通のこと」という扱いだ。
後輩刑事・浅井、ヤクザ、加奈子の元担任の三者については、それぞれ行動の動機は明らかだが、この者たちだって犯罪に手を染めているわけで、実は彼らの「AだからBをする」という流れが社会的に肯定されたり理解されたり許されたりすることなどない。
つまり本作の登場人物たちの存在や想いや行動……享楽的、刹那的、暴虐的な様子……は、その是非が問われることはなく、理由が突き詰められることもなく、どこまでも“ごく普通のこと”というか、ただそうあるものとして描かれるのだ。
そう、普通なんである。人であればごく当然のこととして、狂気、恐怖、倒錯、欲望、嫉妬、自己破壊……といった諸要素を持つ。それらのファクターを、女子高生の加奈子、あるいはやさぐれた元デカ、さらには“ボク”といった各人物の形で実体化させただけで、彼らは特殊でも何でもなく、加奈子はこの加奈子でなくてもよかったし、それは藤島や“ボク”とて同様。遠藤那美や長野や松永らもだ。
これはたぶん、どこにでも普通にある生なのだ。
だからこそ加奈子役には“普通に可愛い”小松菜奈が用意される。確かに魅力的だし、誰からも好かれて無理のない容貌と笑顔と唇ではあるが、正直なところ魔性という点では二階堂ふみや橋本愛のほうが遥かに上。けれど、こういう“普通に可愛いモデルさん”の小松菜奈が、加奈子という存在になることが本作のキモなんである。
そんな“直視したくない普通”を、普通じゃなく、と同時にテーマを体現する妥当な作風で描いていく。
すべての人物はほとんど常にフレームから飛び出す。“何かの枠に収まらない”のが人の生だから。場面は限られた方向から、他の空間と隔絶したように切り取られる。その狭さもまた、人の生。BGMは70年代風の下世話な空気を醸し出し、これらは人の猥雑さを印象づけるべく働く。
時制はさかんに飛び、細かなシーンとカットがパーチワークのように編集されて、それはもう気忙しいほどなのだが、その“バラバラな要素がつなぎ合わされて、何となく意味をなすように見える”のも人の生。
全体としては藤島目線で進みながら、時おり“ボク”へと視点は揺らぐ。その一貫性のなさもまた、人が紡ぐ物語の宿命といえるのだろう。
のどが渇けば水が飲みたくなるのが自然の摂理。それと同レベル、本能的に「そうしたくなる(だから、した)」という、まさしく、生きている限り人が覚える「渇き。」をドロドロと描き切った映画である。
●主なスタッフ
脚本/門間宣裕『パコと魔法の絵本』
美術/磯見俊裕『ゴールデンスランバー』
撮影/阿藤正一
編集/小池義幸
録音/矢野正人
衣装/申谷弘美
VFX/柳川瀬雅英
CG/増尾隆幸 以上『告白』
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