バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演:マイケル・キートン/エマ・ストーン/エドワード・ノートン/ナオミ・ワッツ/アンドレア・ライズブロー/ザック・ガリフィナキス/エイミー・ライアン/リンゼイ・ダンカン
30点満点中19点=監3/話3/出4/芸4/技5
【あらすじ……落ちぶれた俳優、再起へ向けての困難】
大ヒット映画『バードマン』で一躍有名になったもの、ヒーローのイメージから脱却できず、20年以上も低迷中のリーガン。再起を懸けて挑むのはブロードウェイの舞台、自ら脚色・演出・主演を務めるレイモンド・カーヴァー作『愛について語るとき われわれの語ること』だ。だが急遽起用した共演者マイクの自己中ぶり、女優との仲、素直に意思疎通できない娘サムとの関係など問題山積、プレビュー公演も満足のいくデキとはならず……。
(2014年 アメリカ)
【内容について……いまの自分がホントの自分】
マイケル・キートンのセルフ・パロディ的な設定だとか、「結局どいつもこいつもヒーロー映画じゃねーか」とハリウッドを皮肉る(エドワード・ノートンもハルクだもんな)要素も楽しいけれど、それは表面だけのもの。透けて見えるテーマは、レゾンデートルだ。
これは、自分の存在証明を果たそうと足掻く、多くの人が抱える苦しみ哀しみを、リーガンという役者を触媒にして描いた作品。
俳優の場合、仕事そのものが存在証明になる。「俺はここにいるんだぞ」という叫びとなる。でもリーガンの叫びはしばらく世間に届いていない。切羽詰まって意を決し、違う角度から叫ぼうとする今回の試みにも、ひょっとしたら失敗に終わるんじゃないかという恐怖がつきまとう。
共演者のひとりやストリート・パフォーマーが「演技の幅を見せたくて」と披露する無茶なやりすぎ芝居もまた、役者としての性(さが)が生み出す叫びなのだろう。
ただ、叫びも恐怖も無茶も、役者の専売特許じゃない。
サムいわく「SNSをやっていない人は存在しないのも同じ」というのが現代社会。誰も彼もが「私はここにいる」と叫んでいる。
そんなに大声を出さなくったって周りの人たちは意外と僕らの存在を認めているようにも思うのだけれど、地球の裏側にまで叫びを届ける方法を手に入れて人は、なんだか大層な望みを持つようになったらしい。
いや実は、ほかでもないSNSが作り上げた、より多くの人に存在を認められることをよしとする価値観のおかげで、それぞれの人の中には不必要なまでの疎外感が恐怖としてふくらんで、それがために大声を出すのかも知れない。ネット社会における自家中毒だ。
で、無茶をする。犯罪や犯罪まがいの行動や痴態を自撮りで世の中に曝したりする。
どんなに叫んでも誰かに届くとは限らない。リーガンのように、大昔の、あまり好ましくない叫びだけが残響となって社会に漂っている、という状況だってありうる。その残響をキャッチした人たちが“自分としては忘れたい自分”に興味を示し、あまつさえカメラまで向けてくるとしたなら、そりゃあリーガンならずとも我慢ならないだろう。
たとえ叫びが相手に届いたとしても、望むような意味合いで受け取ってもらえる保証はない。「無知」と切り捨てられたりもする。
ま、「こう受け取ってもらいたい」と望みながら叫ぶ自分も、無茶や無理をしている自分も、無茶をしなきゃ恐怖に押し潰されそうな自分も、無知であることに自覚のないまま突っ走る自分も、すべてひっくるめて、いまの自分。因果応報といってしまうと身もふたもないけれど、自分はいまの自分でしかないという事実からは誰も逃れようがないことは確か。
劇場の外に締め出されてしまったリーガンの姿からもわかる通り、“ある瞬間の自分”もまた、さまざまな思考行動によってもたらされた“いまの自分”の一部なのだ。
その真理を受け入れられないとしたら、妄想の中に“ホントの自分”を求めるしかないのだろう。
こうして「映画の感想」という叫びをあげ、妄想の中に浸ることも多い自分には、リーガンを嗤うことなんてできないのである。
【作りについて……渾身、というより、技術と思想のワンカット】
マイケル・キートン、エドワード・ノートン、ナオミ・ワッツらの、体内の筋肉すべてにエネルギーを迸らせたお芝居が、まずは立派。作品のたびに様子を変えるエマ・ストーンは、今回も新たな顔を見せてくれる。
彼らを“らしく”見せるメイクや衣装の仕事もいいし、劇場周辺を立体的に仕上げた美術も素晴らしい。
で、なんといっても、2時間のほとんどをワンカットで押し通したプランニングと、それを実現した撮影&音響&編集の技に驚嘆させられる。
単純な長回しやワンカット構成って、実はやり口としては好きじゃないというか「そんなの映画じゃない」とすら思うのだけれど、ここまで徹底されればもう感服するしかない。
舞台、バックステージ、街中のネオンの下、バー、朝もあって昼もある。それぞれ異なる空気に満ちた場所を、どれも色鮮やかに、完成度の高い画面として切り取りながら、シームレスにつなぎ、魔法のように時制まで操り、その場感の濃厚な音響も付与して、つまりは変幻自在。でありながら妥当性にも富む。
世界の連続性、連続しているはずの時間の不確かさ、その中で変遷していく“いまの自分”、といったことを表現する、この映画に不可欠な手法として素直に受け止め、そして讃えたい。
アントニオ・サンチェスの、アドリブとグルーブに富んだドラムも、即興で生きていく人というものの隠喩として、本作のテーマを支えている。
●主なスタッフ
脚本/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本/ニコラス・ヒアコボーネ
脚本/アルマンド・ボー 以上『BIUTIFUL ビューティフル』
撮影/エマニュエル・ルベツキ『ゼロ・グラビティ』
編集/ダグラス・クライズ『彼が二度愛したS』
編集/スティーヴン・ミリオン『ハンガー・ゲーム』
美術/ケヴィン・トンプソン『ヤング≒アダルト』
衣装/アルバート・ウォルスキー『幸せの教室』
ヘアメイク/ジュディ・チン
SFX/コンラッド・V・ブリンクJr.以上『ブラック・スワン』
ヘアメイク/ジェリー・ポポリス『世界にひとつのプレイブック』
音響/アーロン・グラスコック『インターステラー』
音響/マーティン・エルナンデス『イントゥ・ザ・ワイルド』
音楽監修/リン・フェインテン『バベル』
SFX/ヨハン・クンツ『アクロス・ザ・ユニバース』
VFX/エロイ・ブリュネル『パシフィック・リム』
スタント/スティーブン・A・ポープ『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
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