ゾンビ革命 -フアン・オブ・ザ・デッド-
監督:アレハンドロ・ブルゲス
出演:アレクシス・ディアス・デ・ビジェガス/ホルヘ・モリーナ/アンドレア・ドゥーロ/アンドロス・ペルゴリア/ハス・ビラ/エリエセル・ラミレス/ブランカ・ロザ・ブランコ/スザンナ・ポース/エルザ・キャンプ
30点満点中18点=監4/話4/出3/芸4/技3
【ゾンビ退治は金のもと?】
キューバの首都ハバナ。フアンとラサロは働きもせず、自堕落な毎日を送っていた。ある日、死んだはずの人間が人を襲い始め、噛まれた者もまた人を襲うようになる。政府が「米帝の策略」と喧伝するこの異変の中、フアンとラサロは金儲けを画策。スペインから帰郷中のフアンの娘カミーラ、ラサロの息子で女好きのブラディ・カリフォルニア、オカマのチナや用心棒のプリモらを巻き込んで、ゾンビ退治の商売がスタートするのだが……。
(2011年 スペイン/キューバ)
★ネタバレを含みます★
【ゾンビ映画の左ナナメ下を行く】
どっかで書いたっけ。もはやゾンビ映画って、西部劇やポリティカル・サスペンスなんかと並ぶ“1つのカテゴリー”だよね。
ロメロ路線の延長上で正当な進化を遂げたものもあれば、ハズシを狙ったものとか他ジャンルとの融合を図ったものとか。allcinemaで「ゾンビ」をキーワードにして検索すると、まぁ『カンフー・ゾンビ』や『ゾンビVSチアガール』あたりは想像できるし『レイダース/失われたゾンビ』なんかも微笑ましいけれど、『ハイスクールはゾンビテリア』だの『ゾンビ・ストリッパーズ』だの『おっぱいゾンビ』だの『吸血ゾンビと妖怪くノ一大戦争』だのって、カオスすぎる。
キューバの社会情勢批判(必ずしも社会主義批判ではないと思う)とミックスしちゃった本作は、さしずめ左ナナメ下ってところか。
積まれた酒瓶や「働きたいのか?」といったセリフで示されるフアンらの自堕落っぷり、ゾンビ化した人たちがノロノロ歩く街を見て「普段通り」といってのけるところ、ゾンビ退治を金儲けと結びつけるというテーマ、繁栄する資本主義(的価値観)の象徴として「無駄話している奴ら」=ブロガーが語られること……などを考えれば、未来のない社会主義と毒としての資本主義に蝕まれるキューバの現状をシニカルに描こうとした作品であることは明らかだろう。
ちょちょっと調べれば、作中で言及される“マリエル事件”とかアンゴラとの関わりとか、キューバの壮絶な歴史に触れることもできる。
が、そのあたりの背景を知らなくっても楽しめる怪作。
ゾンビ異変社会だからこそ存在しうる「愛する人を殺します」っていう商売に目ざとく乗り出すフアンの姿勢が、まずはエポック。
悪魔祓いで事態を打開しようとしてみたり、ゆったりと動くゾンビをペシペシと叩いて追い払おうとしたり、ゾンビが海底を歩いたり、描写はどこまでもユニーク。追いかけ長回しの迫力、グダグダになりそうなのに登場人物それぞれの持ち味を生かして意外とシャープなアクション、ゾンビのクビいっせい大量切り落としテクニックなど、意欲的な表現がギッシリだ。
中でも目を瞠ったのが、ゾンビ化していない一般市民を(ほとんどがアクシデントながら)何人も殺しちゃうっていう展開。
だよなぁ、これほどの混沌の中じゃそういうことが起こっても仕方ないよなぁ、なんて、不思議と納得しながら、死ぬべきではない人が死んじゃう場面なのにクスクス笑いを誘われてしまう。
あと、サントラの雰囲気がどことなく『あまちゃん』に似ている。海と、能天気の裏側にある不安を浮かび上がらせるのはラテン音楽なのだな。
で、ラスト。「不満はないが別の生活もあったはず」といっていたはずのフアンは、いまの自分の存在証明を懸け、振り返ることも逃げ出すことも拒否して、死にゆくこの国のありように立ち向かおうとする。流れるのはシド・ビシャスの『My Way』だ。
この男にしては、選んだ道に後悔しないなんて生きざま死にざまはカッコ良すぎて似合わない。けれど、それはたぶんキューバに限らず、自らが置かれた社会情勢や自分自身に不平不満を持ちながら、そういう“現在”を作り上げてしまったのは他ならぬ自分自身だとする自責の行動として、この星の中年男が共通して持つべき決意の表明なのかも知れない。
そんなわけで、いつか『スカーフェイス』をちゃんと観ようっと。
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