ローマ法王の休日
監督:ナンニ・モレッティ
出演:ミシェル・ピッコリ/イエルジー・スチュエル/レナート・スカルパ/フランコ・グラツィオージ/カミーロ・ミッリ/ロベルト・ノービレ/ウルリッヒ・フォン・ドブシュツ/ジャンルカ・ゴッビ/ナンニ・モレッティ/マルゲリータ・ブイ/カミーラ・リドルフィ/レオナルド・デッラ・ビアンカ/ダリオ・カンタレッリ/マニュエラ・マンドラッキア/ロザンナ・モルタラ
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3
【法王に選ばれた男】
前法王ルチアーニが逝去。多くの信者が広場で見守る中、バチカン・システィーナ礼拝堂では各国の枢機卿たちによるコンクラーベが始まった。誰もが「選ばれませんように」と祈り、選挙は難航。やがて有力候補ではなかったメルヴィルが選出される。だが怖気づいたメルヴィルは、報道官らの監視をかいくぐって街中へと逃げ出してしまう。おかげでバチカンは大混乱。メルヴィルは彷徨い続け、信者たちはそのときを待ち続ける……。
(2011年 イタリア/フランス)
★ネタバレを含みます★
【笑いの果てに突き放す】
冒頭のアーカイブ部分から創作部分へ、そのつながりがナチュラル。観る者はいつの間にか“史実”を装う映画世界の中に誘われる。
以後、全体に細かな説明は省略。ま、コンクラーベを知らずに観る人はいない映画だと思うが、そのあたりの知識が乏しくても理解できるようなストーリー。登場人物それぞれの役割や想いや関係、「重すぎる責務を背負わされた(背負わされそうになっている)人の苦悩」も伝わる作りだ。
たとえば、なぜ下馬評に上っていなかったメルヴィルが選出されたのか、いっさい語られない。その唐突感は逆に「ああ、何事にも無難で人のいいタイプが押しつけられちゃったんだな」という想像(そして恐らくは真相)を助ける。あるいはシスティーナに軟禁された精神科医の男と、実際にメルヴィルが対面する女性セラピストが夫婦であることも直接明示はされない。でもみんなわかるし、それによって「何とかしようと裏でコソコソ画策する報道官チームの焦り」も感じられる。
こうした“省き”と“読み取らせ”が絶妙なリズムを生んでいる。モレッティ監督作では『息子の部屋』も「セリフによる説明過多にならず、雰囲気と表情で多くのことを伝える作り」と評したが、こちらも同様だ。
礼拝堂、バチカン周辺、衛兵たちを再現した美術も見事だし、音楽の雰囲気と入れかたもスマート。雑踏の中のメルヴィルの困り顔を浮かび上がらせる撮影など、さまざまなパートが本作を上質な映画へと押し上げている。
メルヴィル役のミシェル・ピッコリなんか「新法王です」といわれれば信じてしまいそうな面立ち。その他の人々のキャスティングも芝居も、軽さと哀しさを適度にミックスさせていて素晴らしい。
で、笑いの中に描かれるのは、法王は神の子である前に人の子であるという事実。また「法王=役者」というシニカルな真理についても示唆される。
もちろん僕らは、無責任に振る舞う枢機卿たちの様子と対照的なメルヴィルの姿に、自らの役割を自覚すること、役者としての人生をまっとうする決意を期待するのだけれど、なんと、彼が役者失格の烙印を押された存在だったというオチ。
作中に登場する『かもめ』。演劇にはキッパリと疎いので調べてみたら、チェーホフ作品の大テーマは「絶望から忍耐へ、忍耐から希望へ」とのことらしいけれど、本作はさしずめ「絶望は絶望のまま。または拒絶へ。拒絶の先に待っているのは、やっぱり絶望」なんていう、登場人物も観客も突き放すアクロバットを見せる。
そして、さまざまなことを考えてしまう。役者に向いていない人にまで役者であることを要求する世の奇妙さ。メルヴィルのような存在を心のよりどころとしなければならない人々の哀しさ。そして、たぶん多くの人が「でも世界ってそういうもの。宗教ってそういうもの」と自覚している、その予定調和の不可思議さ。
世界に影響力を持つ人でいえば、合衆国大統領、国連事務総長、IOCやFIFAの会長は“なりたくてなった”人たちだろうけれど、ダライ・ラマとローマ法王はそうじゃないんだよな。
でもだからこそ、いっさいがっさいの予定調和を受け入れられる“プロの役者“だからこそ、彼らは崇拝されるのかも、なんて考えたり。
いやしかし、よくこんな映画を作れたもんだ。バチカン当局から苦情はなかったらしいが、そこに感じる「実際はこうじゃないんだから、ご自由におやんなさい」的立場もまた、予定調和の中にあるのだろう。
以後はメモ。法王候補のひとりとして高田枢機卿がいたけれど、実際、コンクラーベに参加した日本人枢機卿もいたらしい。
あと、現法王のTwitterアカウントは「Pope Francis」。
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