ルーム
監督:レニー・アブラハムソン
出演:ブリー・ラーソン/ジェイコブ・トレンブレイ/ショーン・ブリジャース/ジョアン・アレン/トム・マッカマス/ランダル・エドワーズ/キャス・アンヴァー/アマンダ・ブルジェル/ジョー・ピングー/マット・ゴードン/ウェンディ・クルーソン/ジャック・フルトン/ウィリアム・H・メイシー
30点満点中21点=監4/話4/出5/芸4/技4
【あらすじ……彼は“世界”に触れる】
小さな“へや”で暮らす幼いジャックとママ。誘拐された後、7年にも渡って納屋に監禁されているママことジョイは、ここでジャックを生み、オールド・ニックによる「日曜の差し入れ」を頼りに生きていた。5歳となったジャックにとっての現実は、ママとアイツと“へや”の中にあるわずかな物だけ、天窓の先も壁の向こう側も知らぬまま、外界との接点はTVと本のみだ。だがある日、ジャックが“世界”に触れるチャンスが訪れる。
(2015年 アイルランド/カナダ)
【内容について……“世界”とは何か】
長期監禁や拉致誘拐は、イマドキでは(特に日本人にとっては)決して空想と思えないお話。ただ、この種の出来事に接した際に僕らが単純に考えがちな「奪われた時間や精神性」云々へと振った内容ではなく(もちろんそれらへの言及もあるけれど)、より根源的な部分、あるいは一歩進んだ地点へと観る者を引きずり込むパワーが、ここにはある。
たとえば“へや”の中でジャックが過ごす時間の描写と彼の独白は、幼い子どもがどのようにして周囲や“世界”を理解していくのかを視覚化、言語化したものだ。自分だけに通用する(往々にして大人には理解できない)理屈が子どもの中に構築されている様子が興味深い。
これらはジャックという特殊環境下に置かれた存在に限らず、いわば普遍的な「子どもの真理」であるはずで、そこへ切り込んでいった作り手の、人の成長に対する、温かで、畏怖にも似た視線が、いい。
また、監禁からの脱出は事件の終わりではなく、途方もない苦難の始まりであることも本作は告げる。
事件の動機や渦中を描いた作品は数多く、それが創作(とりわけエンターテインメント)の本道・本流であることは事実だろう。いっぽうで振り返ってみれば、『息子のまなざし』や『息子の部屋』、スサンネ・ビア監督作の『悲しみが乾くまで』と『マイ・ブラザー』、『ムーンライト・マイル』、『あなたになら言える秘密のこと』、『再会の街で』、『さよなら。いつかわかること』、『BOY A』、『ラビット・ホール』……など「その後」に主軸を置いた映画もまたたびたび作られ、良作があふれている印象も強い。
本作もその系譜に連なるものであり、「苦しみから抜け出したがゆえに襲い来る苦しみ」を描いている点では画期的でもある。
幸いにして世間は「忘却」あるいは「関心の薄れ」という哀しくもありがたい特性を持つ。また、人間はどんな苦しみをも乗り越えられる力を持つのだと希望を抱ける内容でもある。
でも、ただ忘却や、苦しみに直面している人自身の強さに期待するだけではダメだろう。
カギは、ジャックやジョイに極めて近い場所でカメラが回る撮影プラン。そこに感じるのは“世界”が彼らを見ているという視点だ。そしてふたりを取り巻く“世界”とは、ほかならぬ、この映画を観ている“僕ら”なのだ。
そう、これって、世界の構成要素である僕らひとりひとりが、何ができるのか、どう振る舞えるのかを問う映画なんである。
優しく、辛抱強く、普通の暮らしへと向かおうとする、ばあば。恐らくは「何があってもすべてを引き受ける覚悟」とともに、いまのポジションにいるであろうレオの、静かな配慮。そして、パーカー巡査やミッタル医師らが示す職業人としてのプロフェッショナリズム。
たぶん、忘却ではなく何ができるのかと考え実行することが、「その後」を生きる本人たちの意志と同等以上に重要で、大きな救いとなり、そういう価値観で作られた“世界”こそが、ジャックが触れるべき“世界”なのだと信じたいものである。
【作りについて……ふたりの力、それを引き出した力】
主演のふたりが確固たる親子としてフィルム内に存在する奇跡。それが本作の価値を大きく押し上げていることは間違いない。
本作で米アカデミー賞主演女優賞を獲得したブリー・ラーソン。ただし、これまでのオスカー受賞者の多くに感じられた「内面から湧き上がってくる情念をもって観る者をねじ伏せる芝居」というよりも、監禁生活を強いられている24歳の母親として「そこにいる」、ジョイという人物を実在化させている、といった趣だ。
彼女以上に輝きを放つのが、ジャック役のジェイコブ・トレンブレイ君。放送映画批評家協会賞の若手俳優賞ほか数々のAward for Best Actorを受賞している(中にはクリストファー・プラマーを抑えた例も)。見た目からして『サージェント・ペッパー ぼくの友だち』のニール・レナート・トーマス君以来となる衝撃的なまでの可愛さなのだが、演技(いや、こちらもやはりジャックを実在化させたという印象だ)も極上。
単なる天使ではない。ちゃんと等身大の5歳の男の子としてのリアリティもある。彼を発掘し、ジェイコブ君自身も堂々とジャックをまっとうした事実が、この映画最大のハイライトとすらいえる。
撮影は上述の通り、“世界”目線でジョイやジャックを捉えていてダイナミック。適度なジャンプ、カットとカットの間をまたいで挿入される生活音などは、静かな時間の流れを作り出し、序盤では“へや”の中の歪んだ日常を整理しながら観る者に伝え、終盤ではジャックの成長を印象づけるのに寄与する。つまり、編集の技も冴えている。
父親の自覚を持たない父親が買い与えたもの、という雰囲気が漂うジャックの服が面白い。生活感にあふれているのに息苦しい“へや”と、無機質ながら明るさに満ちて安心感を与える病室の対比など、美術も上々。
そうした要素を丁寧にコントロールする演出も良質だ。アブラハムソン監督は前作『FRANK -フランク-』でも、役者の力量を余すところなくすくい上げていたし、「見た目的なセンスの良さと語りの上手さとを両立させたディレクション」を感じさせてくれたが、本作も然り。この人の真骨頂といったところだ。
全体的な特徴としていえることは、出来事そのものが究極のドラマ(劇的事件)であるぶん、描写をことさらドラマチックにしすぎていない、という点。やや淡々と、でもしっかりと、その場で起こっていることや人物の様子を切り取ることで、見えているもの以上のことを画面に詰め込んでいる。
たとえば、初めて「天窓によって切り取られていない空」を見上げたジャックの表情。なにも大仰なことはしていないが、それだけに説得力があり、映画史に残るシーンとなっているように思う。
●主なスタッフ
撮影/ダニー・コーエン『英国王のスピーチ』
衣装/リア・カールソン『マダム・トゥトゥリ・プトゥリ』
ヘアメイク/シド・アルマー『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』
編集/ネイサン・ヌーゲント
音楽/スティーヴン・レニックス
音響/ニオール・ブレイディ
VFX/エド・ブルース 以上『FRANK -フランク-』
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