シン・ゴジラ
総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
出演:長谷川博己/竹野内豊/石原さとみ/大杉漣/柄本明/余貴美子/渡辺哲/高良健吾/平泉成/松尾諭/手塚とおる/中村育二/市川実日子/津田寛治/塚本晋也/高橋一生/小松利昌/國村隼/小林隆/鶴見辰吾/ピエール瀧/斎藤工/松尾スズキ/野村萬斎
30点満点中20点=監5/話3/出4/芸4/技4
【あらすじ……日本vs巨大不明生物】
アクアラインで海中トンネルが崩落。緊急閣議では海底火山または新たな熱水噴出孔が原因とされたが、内閣官房副長官・矢口蘭堂が危惧した通り、ほどなく巨大不明生物が姿を現す。東京に上陸し、形態を段階的に変えながら都市を破壊していく巨大生物。いったんは海へ消えたものの、さらに大きく変態した巨大生物=呉爾羅(ゴジラ)は鎌倉から再上陸、東京を目指して進み始める。日本はこの未曽有の危機を乗り越えることができるのか?
(2016年 日本)
★★★以下、ネタバレを含みます★★★
【内容について……希望と警鐘と】
鎌倉から洋行台(いつものジョギングコースがうつったので驚いた)経由で東京へと進むゴジラの姿は、わが家からこんな感じで目視可能。で、JR根岸線・洋行台の駅前にはゴジラの足跡が残されていたりする。
ちょ待て進路変更してるやん、こっち向かってくるやん、写真撮ってる場合ちゃうやん、的な。
さて、軍人、科学者、たまたま巻き込まれた市井の人々が、未知の脅威と対峙しながら何とか生き延びようと、勇敢に立ち向かったり愚かに逃げ回ったりするアクション・エンターテインメント、というのがパニック・ムービー作劇の常套手段。『宇宙戦争』や『クローバー・フィールド』、近年でいうと『世界侵略:ロサンゼルス決戦』に『バトルシップ』。ハリウッド版の『GODZILLA ゴジラ』もこの路線だった。
本作の場合、中心に置かれるのは政治家だ。
初代『ゴジラ』の精神を受け継ぐ反核メッセージ、人々が逃げ惑う伝統の怪獣映画的要素、ゴジラの存在や生態的特徴に関するサイエンティフィックなエクスキューズ、「はぐれ者ばかりで構成される巨災対」というベタなエンターテインメントのノリ……など、諸要素はあくまでも味付け程度。ひたすら「巨大不明生物の出現から一応の終息までに何が起こったのかを、政府による対策・行動の中枢にいた矢口を軸として切り取る」という手法でストレートにまとめ上げる。
いわゆる“人間ドラマ”は、ここにはない。枝葉もほとんど茂らない。そんなもの知ったことかと一本道で突っ走る。ほぼ事態の推移だけで押し通す。何たる潔さか。事件後に作られた再現フィルム、あるいはゴジラ出現時のシミュレーションといった趣だ。
ただし、ただの再現やシミュレーションにあらず。出来事の向こうには、クッキリとふたつの言葉が浮かび上がる。
まずは“希望”だ。
矢口をはじめとする内閣官房/各省庁/巨災対/臨時政府のスタッフや、政治家としての尻の拭き方を心得ている総理代理らの見事な働きぶり。当然のように仕事をまっとうする自衛隊、共同作戦にすすんで名乗りをあげる米軍、日本が誇る「モノ作りやオペレーションへの高い意識」といったプロフェッショナリズムも称える。
そこには、事態を動かすべき人たちと、彼らに協力できる知見・技術を有する人たちに対して、最低限これくらいの矜持を持ち、これくらいの仕事はしてもらわなければ困るという作り手からの訴えかけと、いやきっとしてくれるはずだという淡い期待が漂う。
印象深いのは、巨災対のメンバーが、この極限下にあっても「ごちそうさま」を忘れないことだ。世界から美徳として賞賛され、けれど僕らにとっては常識以前、いわば性質たる“非常時にも持ち続ける礼節”が、実にナチュラルに肯定されている。
最悪の事態を回避すべく法律と兵器と科学が総動員される、この映画。けれどそれよりもまず、人が人として持つ、責任や覚悟や知恵や行動力や「狼狽えず目の前の問題に取り組もう」というメンタリティこそが事を成し遂げるパワーとなるのではないか。そんな、人間と人間社会(とりわけ現代の日本人と日本社会)に対する“希望”が見えるのである。
いっぽうで感じさせるのが“警鐘”だ。
やたら「想定外」を連発する閣僚たち、さっさと決断しろよと言いたくなる及び腰で保守的な首相、手続きに沿いながらもその裏に確固たる(ある意味では恐怖を感じる)イデオロギーが潜む内閣官房長官と防衛大臣。
政権内の人物像と彼らの言動は、危機意識・危機管理、自衛隊法を含む安全保障関連法、結論ありきの恣意的な法解釈、未曽有の大惨事あるいは異常事態(なにしろ京急だけが止まっているのだ!)における絶対的権限、この状況下で必要とされる人的資質……などなどの、ありかた、必要性と危険性、意義と懸念について深く考えさせる警告的トリガーとなっている。
日本は、何とかあの苦難を乗り越えた。少なくとも乗り越えようとしている。それは誇っていい。でも復興は道半ば。いまだ17万人以上が避難生活を強いられており、廃炉は遠く、凍土壁の計画は破綻し、再稼働へ向けてのスピードとは対照的に再生可能エネルギー導入は遅々として進まない。近い将来、高確率でこの列島はまた揺れると予測されてもいる。
そうした3・11以後のわが国の現状が、本作に色濃く投影されていることは明らか。熱核攻撃(国家崩壊に近い大打撃)の可能性とそれ以上の火種すら示唆しながら、固く唇を結んで前へ進もうとする矢口を描くエンディングは「胸を張れ。きっと次も上手くやれる。だが気を緩めるな、歩を止めるな」と、僕らに対して“希望”と“警鐘”を告げるものだと感じる。
ひょっとするとこの映画を観た後、若者がなすべきことは、政治、役所、自衛隊・警察・消防といった道へ進むことなんじゃないか。
旧防衛庁内では「ゴジラにどう対処するか」という議論がおこなわれたらしい。断言してもいいが、いまも自衛隊の中では有志が(茶飲み話レベルかも知れないけれど)同様の考察に取り組んでいるはず。米軍内でも、たとえば『インデペンデンス・デイ』をベースに「何ができるか」が研究されていたって不思議じゃない。
そうした動きに加わることや、各役所で進められている自然災害や原発事故に関するハザードマップ&避難計画作成を、より大きく深刻な危険への対処にまで広げ、「想定外」をひとつずつ、できるだけ潰していくことが必要なのではないか。
石破茂氏は、本作での法解釈に対し疑問を提示したという。それも政治家として元防衛大臣として、正しいリアクションなのだと思う。
いや、対ゴジラ(に限らず国家的危機全般)に直接関わる職種だけではない。メーカーも商売人も主婦も記者も駅員も芸人も職人も教師もアスリートも中高生だって、日本と日本人の生活を、自身および身近な人たちの安全を守ることに、何らかの形で貢献できるはず。情報を集め知識を磨き行動力を育み礼節を忘れず、目の前に表れるであろう危機に粛々と積極的に他人任せにすることも狼狽えることもなく対処するため“備える”ことが、いま必要なのではないか。
本作がつまらない、という声もある。このうち、東宝チャンピオン祭を期待して「メーサー砲もキングギドラも出てこなかったじゃん」という駄々には理解も同情もしよう。が、「会議ばかり」という批判、「登場人物たちに感情移入できない」との意見は理解しがたい。「そもそも感情移入を意図して作られていない」という説もあるようだが、これにも同意しかねる。
なぜ「日本が徹底的に破壊される恐怖」を感じないのか。限られた時間と「法と手続きは守らなければならないという建前」のジレンマ。いたずらに国民に不安を与えることは避けるべきだが油断もさせてはならないないというジレンマ。そんな中で恐怖に立ち向かう人たちの姿に、なぜ感情移入できないのか。
本作に心を動かされない人たちは、「国や家族や友人を守るだけの、責任も覚悟も知恵も私は持たないし持ちたくもない」といっているようなもの。数々の震災や憲法改正論議や日々の暮らしから何ひとつ学ばず、何も考えずに生きて、何も考えずに映画を観ている人たちなのだろう。
どうも道徳・修身や愛国主義者みたいな物言いになっちゃったけれど、現在の日本に生きるいまの自分に「どうする?」「何ができる?」と問いかける役割とパワーを持つ映画であることは確かだと感じるのである。
【作りについて……疑問点もあるものの上々】
余白が多く奥行きを意識し、顔を正面から捉えたアップも多用。状況説明や捨てカットを挿入しながら短いカットでテンポよく進めていく。アニメーション的なレイアウトと編集が、意外と心地よい。
深海魚/両生類を思わせる第一~第二形態が、なかなかのツボ。なんだか間抜けなフォルムなのだけれど、その見てくれと起こっている惨事のアンバランスさは、本作に潜む重要なメッセージのひとつなのだと思う。真の恐怖は、誰が見ても感じる禍々しさとともに襲い来るとは限らないのだ。
一転して第四形態は、伝統的ゴジラのそれでありながら、アンタッチャブルで不条理な生き物として背筋をゾワゾワとさせる動き(ここでは野村萬斎の貢献度が大きい)を見せ、ゴジラ有翼化の可能性も示唆される。おまけに放たれる光線はイデオンソード(第五使徒ラミエルにたとえる人も)。知る者にとってはもう圧倒的な破壊力と絶望の象徴だ。実際「これ勝てないんじゃね?」と観念しそうになったほど。
作品のテーマと生態としてのゴジラの設定とデザインワークスとが、上手く絡み合った“ゴジラの具現化”だと思う。
そのゴジラを表現したほか、破壊される都市、小気味いいブリーフィングを画面に刻むSFX/VFXも及第点以上。10式戦車や16式機動戦闘車などの挙動も(素人目には)スリリングに描かれていて楽しい。
音楽は、伊福部昭へのリスペクトはいいとして「Decisive Battle」の採用は果たして正解だったのかどうか。画面や出来事にマッチし、ニヤリとさせる要素にもなってはいる。鷺巣詩郎によれば「ドキュメンタリーの象徴」とのことで、なるほど昨今ではこの曲が“緊迫”を示すものとして広く再利用されているという側面もあるだろう。が、リアルを貫く本作に『エヴァ』という空想物語=不純物が混じるのも事実だ。
シナリオ(というか政府と自衛隊の対応)は、自衛隊ほか関係者とのミーティングを重ねたうえで作成、「ファンタジーはゴジラの存在だけ」というリアリズムを目指したとのこと。その点は確かに秀逸だ。ただ、やや説明口調のセリフが多く、いちいちテロップが置かれるのは映画的ではない手法。まぁこれも前述した「再現またはシミュレーション」と考えれば、むしろリアリティ向上に貢献する策かも知れない。
おあつらえ向きの角度と高さでゴジラが倒れ、無人列車爆弾や放水車が瓦礫に邪魔されず突進し、気絶した生態の口から血液凝固剤が漏れないクライマックスは、さすがにご都合主義が過ぎる。
が、これもまぁ、物語としてのカタルシスを創出して本作に“希望”をもたらすための、ギリギリの妥協ライン。実際あのシチュエーションでは、多少無理目の作戦(即席の対放射線仕様を施して水を汲んで原発の上から散水したCH47ヘリを思い出す)でも決行せざるを得なかったろうし、それがたまたま成功したバージョンのシミュレーション、といったイメージで捉えて「危なかったけれど、何とかやり切ったね」と、空しい安堵を味わえる結びとして受け入れることとしよう。
頼もしい上司であるはずの大杉漣はさんざんアタフタした後に白旗をあげ、頑固で愚鈍な渡辺哲や平泉成がここでは頼もしく、人のいいおばちゃんからキャリアウーマンまで変幻自在の余貴美子は狂気にも似た信念を発露。人物像とキャスティングのマッチング(またはミスマッチ)が秀逸だ。長谷川博己なんか、不倫しているか勝気な女性に振り回されている印象しかない。そんな男だって国家存亡の機となればやることをやってくれるのだ。
唯一、カヨコ・アン・パタースンには注文をつけたい。批判されているらしい石原さとみの芝居は、別段問題なし。が、「祖母の国に原爆を落としたくない」という行動モチーフを口にしたのは余計だったろう。
各キャラクターを掘り下げ過ぎないのが本作の良さなのだ。巨災対のメンバーなんか、たまたまそこにいる(または職能ゆえに集められた)人たち。それでも口調や振る舞いからは、これまでどんな人生を歩んできたのかうっすらと浮かび上がる、いい描かれかた。そんな人たちが一心不乱に働く姿を見せることで「全身全霊を賭して危機回避にあたることは当然。そこに理由などいらない。または理由など問うまでもない」という雰囲気が醸し出されるのだから。
●主なスタッフ
脚本/庵野秀明『キューティーハニー』
編集・VFX/佐藤敦紀『ステキな金縛り』
美術/林田裕至
録音/中村淳 以上『十三人の刺客』
美術/佐久嶋依里『悪の経典』
SFX/樋口真嗣
キャラクターデザイン/竹谷隆之
イメージデザイン/前田真宏 以上『巨神兵 東京に現わる』
音楽/鷺巣詩郎『CASSHERN』
音楽/伊福部昭『ゴジラ』
音響/野口透『ハウルの動く城』
扮装統括/柘植伊佐夫『おくりびと』
スタント/江澤大樹『麒麟の翼』
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