この世界の片隅に
監督:片渕須直
声の出演:のん/細谷佳正/小野大輔/尾身美詞/稲葉菜月/潘めぐみ/牛山茂/新谷真弓/岩井七世/小山剛志/津田真澄/大森夏向/京田尚子/目黒未奈/世弥きくよ/栩野幸知/三宅健太/澁谷天外
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3
【あらすじ……戦火の中、ひとりの娘の生】
昭和19年、戦時下の広島。不器用ながらも朗らかで絵の得意な浦野すずは、呉に住む北條周作のもとへと嫁ぐ。優しい舅や足の不自由な姑、出戻ってきた周作の姉径子とその幼い娘晴美、そして近隣の人々らと、明るくたくましく日々を過ごす、すず。だが戦況は苛烈さを増し、軍港のある呉では空襲も増えていく。やがてかけがえのないものを次々と失ったすずは、それでも自分を保ちながら強く生きていくのだが……。
(2016年 日本 アニメ)
【内容について……戦争の中で“生きる”ということ】
序盤は、すずというひとりの女性を通じて、ノスタルジーの中にリアルも絡めながら当時の日本(広島)を描き、大切な人や時間を奪う戦争の悲劇性と愚かしさを浮かび上がらせていく。いってしまえば“よくある戦争映画”という認識で観ていた(実際そういう意味合いも持つ作品だとは思う)。
だが中盤、すずが体内にほとばしる情念をむき出しにするシーン、あるいは終盤の叫びに、腰を抜かしそうになる。それまでが比較的淡々とした語り口だったぶん、驚愕は大きい。と同時に、自分は“突然の感情爆発”が大好きだということを再認識する。
戦争が、その“暴力性”によって人間からさまざまなものを奪うことは確かだ。けれどそれ以前に、「悦びや希望を諦め、本来の自分は心の中の深いところに押しとどめて抹殺しなければならない」という絶望的な価値観を強いる“脅迫性”のほうが、人に与える影響は大きいのではないか。
いや、過去にもこの“脅迫性”を「戦争は嫌いだが、憲兵や隣組に睨まれないよう自分の意見を押し殺す」といったベクトルで描いた作品は多かったろう。だが本作には「戦争の中では、自分自身を、自分に対して偽らなければならない」という捉えかたが見える。
こんな世の中で、自分の望まぬスタイルの生をまっとうしようと思えば、他人の視線や評判を意識したり時代の風潮を慮ったりするよりもまず「自分を欺く」ことが必要なのだ。そうしないと生きていけないのが戦争なのだ。
じゃあ、なぜそこまでしなければならないかといえば、人は、とにかく生きていくほかないから。
生きるために、みずから曲げざるをえない。戦争が持つそんな恐るべき機能に着目し、映画としてまとめあげたことに腰を抜かす。
ありきたりな作劇で、戦争の悲劇性、愚かしさ、暴力性を伝えることを意図した映画ではなかったからこそ、ここまで広く大きく支持されたのだと思う次第である。
【作りについて……ディテールとミスディレクション狙いと歌】
原作者・こうの史代の創るヴィジュアル世界をそのまま再現するかのように画面は水彩画チック。ただし、その牧歌的な雰囲気の中には圧倒的なディテールが詰め込まれていることがわかる。
2次元的・イラスト的・紙芝居的なレイアウトは、ある意味では人の多面性を無視しているわけだけれど、それはまさに「作中のすずの姿や言動は、あくまで僕らに見えている彼女の一面にすぎない」という、本作のテーマを具現化した作り。
このあたりは同監督作『マイマイ新子と千年の魔法』に込められた「人のすべてを理解できるわけではない。わずかに見える部分を頼りにその人の内側までを判断するしかない」というメッセージとも共通する部分だ。
となると、どちらかといえば天然キャラのイメージを持ち、けれど内部には熱さを秘める(はずの)、のんのキャスティングにも、ひょっとすると、ある種の狙いがあるのではないか。こんな“のほほん”の中にも、熱いものがうごめいているのだという驚嘆を、画面の内でも外でも観客に与えるための、そんな起用。
もちろん、役と一体化した彼女の芝居は、こんな妙な裏読みなんか関係ない部分で、映画そのもののを素晴らしいものにしてくれてもいる。
コトリンゴによる歌の数々=「悲しくてやりきれない」「みぎてのうた」「たんぽぽ」は、どれも耳に残り、心に染みる。シンプルなアレンジは、それだけダイレクトに僕らに迫り、映画の中のパーソナルな出来事を人間社会普遍のものへと昇華させるだけのパワーを持っている。
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