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2017/11/13

ブレードランナー 2049

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング/ハリソン・フォード/アナ・デ・アルマス/ロビン・ライト/シルヴィア・フークス/マッケンジー・デイヴィス/カルラ・ユーリ/デイヴ・バウティスタ/バーカッド・アブディ/レニー・ジェームズ/ウッド・ハリス/デヴィッド・ダストマルチャン/トーマス・ラマケス/ヒアム・アッバス/エドワード・ジェームズ・オルモス/ショーン・ヤング/ジャレッド・レトー

30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4

【あらすじ……作られた者の行く先】
 ロス市警の捜査官(ブレードランナー)として旧型を“解任”する仕事にあたる新型レプリカント「K」ことKD6-3.7は、あるレプリカントに関する重大な秘密を知る。世界の秩序を崩壊させかねないとして上司から全証拠の破壊を指示されたものの、秘密のカギを握る存在が自分自身ではないかと動揺するK。またレプリカントを製造するウォレス社の社長ニアンダーもこの秘密に強い関心を寄せ、部下のラヴにKの追跡を命じるのだった。
(2017年 アメリカ/イギリス/ハンガリー/カナダ)

★★★ややネタバレを含みます★★★

【内容について……人とは何か】
 これほどまでに気負いのないパート2があっただろうか。映画史における『ブレードランナー』の位置づけを考えると、その続編を作ることには少なからぬプレッシャーを抱いて当然のはず。ところが、ヒットさせようとか、旧来のファンも新参も納得する作品にしますよとか、そういう熱や意気込みがまるで感じられない。
 ごく当たり前のものとして「続編です」と僕らの前に置かれるのだ。なんというか、「パーに勝つのはチョキ」「太陽は東から昇る」といった厳然たる事実と同じレベルで、これが『ブレードランナー』の続編であることに疑念を抱かせないのである。

 まぁリドリー・スコットが製作総指揮としてコントロールし、脚本が前作と同じハンプトン・ファンチャーで、そこに『LOGAN/ローガン』のマイケル・グリーンが加わって、ドゥニ・ヴィルヌーヴがメガホンを取るならば、それで妙なモノが出来上がるわけはないか。

 レプリカントを生化学的・工学的な側面からは一切説明せず「人の都合によって作られ、ただ消費され破壊されるニセモノの生命」として記号的に、あるいはこれもまた「当たり前のように」作品内に存在させていることが、本シリーズのポイント。
 だからまず、今作における最大のキー=レプリカントにまつわる重大な秘密には「えっ、そんなことが可能なの?」「レプリカントって、どう定義するべきなの?」と、上司マダムのごとく自然に驚いてしまう。

 そして、この重大な秘密によって「記号的な何かにすぎないレプリカントが運命論や自己の存在証明について苦悩する」という前作の流れ・テーマが今作にもスンナリ(ただし新しい意味合いとともに)引き継がれ、そんなレプリカントの苦悩を通じて別のものを語る本シリーズのありようも、新たな重みを持って持続することになる。

 前作の感想では「人とレプリカントを明確に分けるものなどない」と述べた。今作ではさらに人工知能のジョイも登場。レプリカントは少なくとも物理的には実在するが、AIはヴァーチャル、遥かに人間から遠い存在だ。そのジョイに“恋”という要素を背負わせたことで、人間とそれ以外との境界線はますますボヤケていく。

 また今作でネアンデル・ウォレスは「レイチェルとの出会いや彼女への愛情は誰かに仕組まれたものではないか?」とデッカードを揺さぶる。このあたりは『攻殻機動隊』シリーズにも通ずる“記憶や自律行動をめぐる問答”であり、やはり人間とそれ以外との境界線を考える際の重要なモチーフであり哲学でもある。

 次第に、『ブレードランナー』を観るという行為が「何をもって人とするのかを考える」ことと同義であるように思えてくる。前作鑑賞時に述べた通り「人とは何か、と考える。それがこの映画の意味であり価値であり本質」なのだと、より強く感じられるようになる。

 人間もレプリカントもAIも、思索する知恵と激しく起伏する感情を持っている点で等しい。少なくとも本シリーズではそう描かれているように見える。戸惑い、悩み、寂しがり、己が運命に割り切れない思いを抱きながら対峙し、悪あがきする。そして、人間らしく振る舞おうとする。

 どんな心情や行動を“人間らしい”と捉えるのかは人それぞれだろう。けれどふと考えてみると、本作の主要登場人物のうち一定以上の確度で人間といえるのは、上司マダム、ガフ、ウォレスくらい(デッカードについては後述)で、ところがこの人たちは悩んだりあがいたりせず、使命感や諦観や欲望に支配されていて、行動原理がわかりやすい。

 わかりやすいんだけれど、“人間らしい”とは思えない。組織と規律の中で思考が停滞した管理職、過去を振り返るだけの老人、自己顕示欲むき出しのマッド・サイエンティスト、と、この3人のほうがむしろ記号的で、彼らよりも、フレキシブルに自分の存在意義を変容させていくレプリカントたちに感情移入してしまう。

 ああ、そうか。「人間とは何か?」を考えるのではなく、いったん人間とかレプリカントとかAIといった枠を取り払って「人間らしさとは何か?」を考えさせているのか。
 そこで出てくるのがデッカードだ。

 デッカード=レプリカント説については「どっちでもいいじゃん」「曖昧なままのほうがいい」「彼の正体がどうであれ、この映画の意味も価値も本質もたいして変わらない」という立場なのだが、後押しするかのように、ヴィルヌーヴ監督自身「デッカードが人間なのかレプリカントなのか、プロット上は曖昧」と語っているらしい。ストーリーの整合性(または今作で明かされる重大な秘密)に照らして考えても、レイチェルがレプリカントならそれでOKであるわけだし。

 人間かレプリカントかは曖昧だとしても、デッカードの役割は明確だ。
 前作では「レプリカントか人かは関係なく、その歩みは求めあうことと殺しあうことであり、待つのは“死”だけ」の存在、ハードボイルドの主人公だった。一転して今作では「人間らしさとは何か?」を問う大きな物語(作中の出来事)の1パーツとして扱われている。“生のつながりにおける1構成要素”という役割を担わされているのだ。
 剛腕ともいえる劇作である。

 そして、デッカードの決意や悲哀や安息を見ていると、なんだか「生のつながりが人間の証左であるなら、かつ、お前自身も人間であろうとするなら、1パーツになることを厭うな」と説かれているような気になる。
 社会やシステムや歴史や物語の、単なる構成要素として生きることは、たぶん“人間らしい”とはいわないはず。けれど、ときにはそうすることが、人間として必要になるという皮肉。
 人とは何か、人間らしさとは何か、考えるためのトリガーとなっているデッカードは、やはりこの映画の主人公なのかも知れない。

 前作でロイは、汚れた雨に打たれながら俯いて息絶える。そこにあったのは(ロイという)個の絶望、あるいは、もっと安らかに人間らしくありたかったという祈りだ。
 いっぽう今作でKは、いやジョーは、舞い落ちる白い雪を見上げながら仰向けで眠りにつく。人間だろうがレプリカントだろうがAIだろうが、人間らしさを求めて行動する者たちの行く手には、見果てぬ空が、種としての希望が広がっているのだと示すかのように。

 となると、さらなる続編(たとえば『ブレードランナー2079』とか)を観たくなる(リドリー・スコットならやりかねない)。でも、きっとみんな口を揃えるんだろうな。
 「2つで十分ですよ」
 ま、それくらい鮮やかなデキである。

 追記。ジョイの起動音について。AIにサウンドロゴが用意されている、それだけでもう素晴らしくSF的だし、「本来は汎用型の製品なのにKとつながっていく」という展開を考えれば不可欠な演出でもある。感涙。
 そのサウンドロゴが『ピーターと狼』であることを分析するレビューはさすがに多くて、たとえば「人ではない者たちが奏でる物語の比喩」といった意見が見られるが、個人的には「万能を気取ってすべてを支配しようとする未熟者」と、映画の登場人物たちを嗤っているような気もする。

【作りについて……圧倒的】
 オープニングから前作のイメージを踏襲した作り。「タイレル社の資産を買収したウォレス社によって……」という文字の前置き~眼球のアップで、一気に『ブレードランナー』世界へと引き込む。

 ヴィジュアル・イメージは相変わらず圧倒的。
 前作ではシド・ミードやローレンス・G・ポールが作り出した「エキセントリックで猥雑な、希望のない世界としての近未来ディストピア」を、ジョーダン・クローネンウェスの「暗く、くすんで煙った、粒子感のある」撮影および「雨と夜という設定が、さらに退廃を増加させる」演出で唯一無二の世界を創出していた。

 今回はこれをブラッシュアップしつつ「この30年で環境の改善や再開発が進んだ地域と、より荒廃が進んだ地域に二極化した」というイメージを打ち出して、郊外の農場地帯、砂漠化したラスベガス、工場、廃棄物の山など舞台のヴァリエーションを広げてみせる。
 また、Kのアパートメント、LAPDのオフィスとラボ、老人ホーム、アナ・ステリン博士の無菌ドーム、心理テスト・ルームなど、前作にはなかった“照らされた屋内”が数多く登場。その無機質な明るさが、前作の暗さと対をなして、かえって続編っぽさを強めているように思える。
 フォークト=カンプフ・マシンの発展形、進化したスピナー(飛行車)、ホログラムAIなどガジェットも楽しい。

 今回のプロダクション・デザインはデニス・ガスナーで『トゥルーマン・ショー』の人。“デザインされた世界”を作った経験があるわけだ。
 撮影は『TIME/タイム』のロジャー・ディーキンス、衣装は『メッセージ』のレネー・エイプリル、メイクは『オデッセイ』のクシラ・ブレイク=ホルバスと、やはりSF大作の経験者が並ぶ。
 VFXは『アイアンマン』のジョン・ネルソン、『ザ・ウォーク』のヴィクトル・ミュラーなどで、なるほど浮遊感を作りたかったわけか。

 コンセプト・アーティスト/コンセプト・デザイナーとしてクレジットされている面々が過去に手掛けた仕事を調べると、『トロン:レガシー』『アバター』『ローグ・ワン』『クラウドアトラス』『タイタンの逆襲』『ファンタスティック・ビースト』『ダークナイト』など。
 ここではないどこかで、もがき、死んでいく者たちの物語、というイメージを、各所から集めた人材で磨き上げていったのだろう。
 続編への気負いがないように感じたけれど、徹底して共通認識のビルドアップに取り組んだことがうかがえる。

 農場の俯瞰、ウォレス社の受付の切り取りかた、パイプが走る工場、砂塵の中にたたずむ巨像など、幾何学的・アーティスティックに見せる画面レイアウトも面白い。でも、全編ただ奇をてらっているわけでもない。
 序盤、ビニールハウスの半透明の屋根の向こうに飛ぶスピナーが素晴らしい。わざわざ屋根越しなのだ。リアリティというより、もはやリアル。「ここから見上げたら、こういうふうに見える」を作り上げることでスピナーが現実のものとなる。このカットで早くも「あ、この映画は相当にヤバい。正真正銘ホンモノのSF映画だ」と確信したくらいだ。
 もともと“ぐぅんと方向転換して着地するスピナー”のように、面倒なのにわざわざ細かな描写を取り入れるのが『ブレードランナー』の真骨頂でもあるわけで、シリーズを通じてのマインドの一貫性も感じる。

 音楽の方向性も前作と同様だが、正直、ヴァンゲリスの壁は分厚過ぎたのだろうと思う。『ダンケルク』などの巨匠ハンス・ジマーや『それでも夜は明ける』などのベンジャミン・ウォルフィッシュをもってしても、かなりの難産だったようだ。

 演出のベクトルも「セリフは短いセンテンスで構成されるとともにギリギリまで削ぎ落とされていて、動き・流れ・出来事でストーリーをじっくり見せる作り」に徹していた前作を意識しているようだ。
 いや前作にもまして、楽しませようというテンポやリズム感をあえて殺しているとすらいえる(編集は『メッセージ』などのジョー・ウォーカー)。この「安っぽいエンターテインメントはいらない」という孤高の佇まいもまた『ブレードランナー』の本領だろう。

 ライアン・ゴズリングは、まぁもともと感情の起伏がわかりにくい顔立ちと芝居なのだけれど、そこから突如として悲しみや苦悩を顕にする瞬発力で Kを好演。ラヴ役のシルヴィア・フークス、ニアンダーのジャレッド・レトーも怪しさ全開で作品世界に馴染む。
 エドワード・ジェームズ・オルモス(ガフ)とショーン・ヤング(レイチェル)の登場はファンサービス的な意味合いもあるのだろうけれど、そんなヘラヘラした気分とは無縁なのがハリソン・フォード。もうね、デッカードがただのおっさんなんですよ。その様子が、今作におけるデッカードの役割や作品のテーマに直結しているようで、拍手を送りたい。

 で、アナ・デ・アルマスである。「人間らしさ」を表情と動きと発声と思考にミクロレベルで漂わせるAIを見事に演じ切る。ていうか可愛い欲しい。慌てて過去出演作のトレーラーをチェックしたんだけれど、本作のジョイがズバ抜けて可愛い。欲しい。
 ホログラムAIに心がざわつく。そういう現象を観る者(人間)の内面に呼び起こした時点で、この映画はもうまぎれもなく『ブレードランナー』なのである。

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